人類みなアミーゴダイアリー in BRASIL

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廣瀬 拓哉
(大阪府)

タイプ/職種
日系社会青年ボランティア
野球
派遣国
中南米
ブラジル サンパウロ州 インダイアツーバ市
一言メッセージ
人が温かい大阪から,これまた人情に厚いブラジルへ! 『将来に活きるTEAMをつくる』をモットーに,野球の指導を通し,国と国・人と人が繋がる活動を目指します。

 

日本人トメアス移住第一回目乗船 山田 元さん さわやかNo,38

2019.02.01

まだまだ知らないブラジルのこと 人 文化 生活 繋がり

現在,夏休み中に出会った方々のストーリーをここに書いているのですが,今回はその第三弾!!
ブラジル北部・パラー州で出会った方をご紹介します。

【第三弾の主人公はこの方!】
Tomé-açu(トメアス) はQuatro bocasに,ピメンタ御殿を構え,今でも元気に生活されている山田 元さん御歳92歳

山田さんは,1929年『日本人トメアス移住第一回目の船』に乗船されて,ブラジルに来られた一世。

広島県でお生まれになり,当時2歳の時に家族と来伯。以降トメアスを拠点にこれまで生活されてきた方です。


現在,当時一緒に来伯してきた仲間は全員亡くなり,ご存命なのは山田さんだけ。
山田さんがブラジルに来られてからの90年間で,900人の日系人の方が,このトメアスの地で亡くなってこられたそう。
山田さんはそんな中,トメアスの日本文化・農業の継承を。また,お寺の住職さんとしてずっと支えてこられました。

“これまでの人生,苦悩の日々の連続だった”と山田さん。



【山田さんの人生とは?~幼少期~】
幼児の時の居場所は,常に“畑で働くお母さんの背中”だったと山田さん。
『そのおかげで,ガニ股になっちゃった。』とおっしゃっていました。

小学校までしか教育を受けることができず,基本は家の農業の手伝い。

平日はブラジル人の方達と一緒に授業を受けていました。
が,ここにもトメアスならではの特徴的なストーリーが。

当時,学校に在籍していた生徒の30%は現地のブラジル人で,残りの70%は日系人だったのだそう。
トメアスは,ブラジル北部で初めて,日本政府が正規に移民を送り出した場所
第一回目の1929年7月24日に神戸港を出航して,トメアスに来られた方々は42家族・189人にも上ったそう。
と,いうことは,先ほどの割合,山田さんの小学生の時代は,こうしてこの時期にブラジルへ来られた家族の子どもたちが,小学校の全体7割を占めていたことが伺えます!

まだ,ブラジル内の州立の学校が整備される前で,あった学校は私立のみ。
そうした状況に,ブラジルの現地の方々は“教育”に興味はなかったのも,そうした比率に表れているのだそうです。

しかし,そうは言ってもブラジルの中のブラジル人に向けた教育をする学校。
もちろん授業は全てポルトガル語です。

2歳からブラジルに来られた山田さん。
『お前は日本人なんだから,日本語を話せんといけん!』と厳しい父に言われながら,学校後の仕事が終わった後と毎週土曜日は日本語の勉強をされていたそうです。

そんな少年期のお話を聞かせてくださる山田さん。

「う〜ん。大して楽しいことはなかったなぁ。あ,あるとすれば,街の商店におつかいを頼まれたついでに,その商店の息子の友だちと野球をすることだったかなぁ」

【山田さんの人生とは?~青年期以降~】
大人になってからは山あり谷あり。

戦時中,隣町のベレンでは,日本人移民の方のお家は焼き討ちに遭い,多くの方がこのトメアスに逃げてきたのだそう。
そうして逃げて来られた方は,精米所で寝泊まり。中には,見知らぬ人の家の玄関で寝ていた日もあったとか。
もちろん,3,4人集まって日本語で話す状況を作らないことや,日本語で書かれた本は見つからないように隠したりと,毎日神経を使いながら生活されていたといいます。


1950年代-1960年の頭にかけては,ピメンタ(胡椒)の栽培が大当たり。

当時,トメアスでの胡椒の呼び名は『黒のダイヤ』
ブラジル国内だけに留まらず,海外へ輸出するほどの胡椒が獲れたのだそう。
おかげで,山田さんもブラジル国内のあらゆる場所に土地を持ち,上の写真のような,ご立派な屋敷も建てられたとか。
そんなピメンタブーム時に建てられた家なので,『ピメンタ御殿』と呼ばれるのだそうです。

ここからはピメンタの時代!ピメンタさえあれば!と思った矢先…
ピメンタ(胡椒)の栽培で大成功を果たしたと思えば,1960年代ピメンタの病害により,経営は急降下。
ブームの時は年間100t獲れていたピメンタも,病害のおかげでみるみるうちに枯れていき,60年代後半から70年にかけては,20tほどしか獲れなくなってしまったそう。

そんな経営的にも苦しい時,
なんと,母と奥さんを心臓麻痺で亡くし,最愛の娘までもを交通事故で…。
また,ご本人も《マラリア・肺炎・赤痢・胃を切除》と,ありとあらゆる病気にかかったとおっしゃっていました。


本当にこの時期は本当に大変だった。と当時を振り返りながらお話してくださいました。


そんな山田さんの90年の人生。

“人生で一番嬉しかった瞬間は?”と尋ねると,

『1991年に60年振りに帰国して,生き別れた姉と再会した時』とおっしゃいました。


1990年代ブラジルの出稼ぎブームで日本に行っていた息子さんから,ある日航空券が届いたのだそう。

「お父さん。これで一回故郷見てきなよ。」とプレゼント。
息子さんからの航空券を手に,約60年ぶりに日本の地を踏み,山田さんの記憶では初めてお姉さんと再会を果たしたのだそうです。

【山田さんの人生とは】
お話の最後に,山田さんがおっしゃった言葉,

“本当に,こんな虚弱児で生まれながら,90歳まで生かしてもらえているのは,周りのみなさんのおかげ。感謝しています。”


想像を絶する人生を送って来られた方の貴重な言葉。

また,さらには,
“JICAボランティアの方々のご訪問を頂き,色々お話を伺い感無量でございます”というお言葉も頂きました。

こちらの台詞です。

日本に住んでいると,『ブラジルと日本の関係』について考える時間はほとんど無いかと思います。
正直,私もブラジルに来る前は,ブラジルという国のイメージに対して,『サッカー』『サンバ』というぐらいしかなく,『日本人移民』に関しては,ほんの少しつまんだほど。恥ずかしながら,詳しい内容までは,勉強したことがありませんでした。
しかし,ブラジルに来てつくづく感じることが,ブラジルにお住いの『日本人移住者』『日系人』の方の日本に対するお気持ち。

ブラジルで生活をしながらも,常に日本を想い生活されている人がたくさんいます。
だからどうした?と言われると,それまでの話なのですが,そうした想いを持った多くの方々が,地球の真裏っ側で生活しているということを知っているだけでも,自分の小さな行動ひとつにも可能性と責任が出てきますし,また,共に喜べる機会を作ることだってできると思うのです。

山田さんのような体験をされた方から,直接お話を聴かせていただく機会が持てたことが大変嬉しかったですし,またこの話を繋げていくことが今の自分にできることかなと思い,このブログにまとめました。


今でも,街を自転車で元気よく散歩している山田さん。
いつまでもお元気で。貴重なお話を聞かせていただき,本当にありがとうございました。

☆トメアスには空港がないため,隣町のベレンからバスで行く必要があります。
 そんなバスでトメアスに向かう道中,爆睡していると「はーい。すいませーん,一旦バ
 スから降りてもらえますか〜」と交通整理のお兄さんの声。
 なんと川によって道路が途中で切れちゃってます。なので対岸へ渡るため,写真のよう
 に車ごと川を渡るんです!
 ブラジルのパラー州・アマゾナス州は,川が多いためこういうことがよくあるそう。
 普段とはまた違った,バスの旅も楽しい思い出の一つとなりました。
 今後,トメアスに行かれる方は是非このアドベンチャーもお楽しみに!!