2025/06/03 Tue
帰国
【番外編 帰国隊員の言葉】人にやさしく


Alii!(←パラオ語のあいさつ)
狩倉悟志(かりくらさとし)と申します。中学校の英語教師をしていましたが、一旦休職して、2023年7月から2025年3月まで青年海外協力隊としてパラオで活動していました。現在は再び中学校の教師として勤務しています。日本の学校の仕事の多さに、体がついていっていないのが正直なところです。
私が海外協力隊に応募したきっかけ。それは、昔から国際協力に興味があり、いつかは海外で働き、世界のために尽力したいと思っていたから......という崇高な理由ではありません。当時、その年度末で勤務校からの異動がわかっていたところで、たまたま協力隊のCMを見たのです。「どうせ今の学校から異動するなら、試しに応募してみるか。」くらいの動機でした。ずっと日本で暮らしていたので、英語教師でありながら海外生活の経験がない私。ただ単に海外で、特に英語圏で生活してみたかった、という思いもありました。そして海なし県である群馬県出身の私は、「どうせなら海がきれいな国で暮らしたい!平日は学校で働いて、週末は青い海と白い砂浜のビーチでチル!」という夢を抱き、パラオの職種に応募したのです。
パラオではガラスマオ州に配属されました。(ちなみにガラスマオ州にビーチはなく、私の夢は儚く散ったのでした...)
ガラスマオ小学校という全校児童38名の学校で算数と体育の指導をしました。国際協力ということで、(上から目線になってしまいますが)現地の人を「助ける」ために派遣されたのですが、実際にはパラオの人に「助けられ」て過ごした1年8ヶ月でした。
例えば、前任の隊員が実施していた運動会をやりたい!と提案しましたが、各種目の準備、運営には同僚の先生にも協力してもらいました。保護者も(勝手に。笑)入ってきて、ゴール地点で児童に声掛けをしてくれました。
パラオではホームステイをしました。私のホストマザーは(私に負けず劣らず)とても無口で無愛想なおばあちゃんでした。しかし、私のために毎日ご飯を炊いてくれたり(パラオ人も白米を食べます)、ときどき料理を作ってくれたりしました。いわゆるツンデレなホストマザーで、ホームステイ最終日には「またいつかパラオに来たら、うちにも来なよ。」と言ってくれました。
地域の人々も私を見かけると「Kari !」と声をかけてくれたり、手を振ってくれたりしました。日課にしていた夕方のジョギング中に通りかかった家では、晩ごはんのために庭で揚げているフライドチキンを食べさせてくれたり、別の人はジョギング中にスコールが降ってきたときは、私を車に乗せて家まで送ってくれたりもしました。
「人という字は人と人が支え合ってできている。」というのはTVドラマ「3年B組 金八先生」の中の言葉です。さすが金八先生、いいことを言いましたね。パラオでの生活を通じて、私はこの金八先生の言葉の意味を実感しました。
ガラスマオ小学校の先生は、かけ算九九を生徒に暗記させるためのドリル学習など、同じことを繰り返し継続して取り組ませるのが苦手です。だから、私が毎日、生徒に九九のドリルを与えて取り組ませました。また、ガラスマオ小学校の先生は体育の授業のやり方を知りません。だから、私が体育の授業をやって見せました。
私はパラオ人特有の物事の考え方や文化を知りません。そんなときは学校の先生や生徒、地域の人が教えてくれました。
私はパラオの子どもたちに日本の文化や考え方を伝えました。そうやって現地の人と支え合って生活しました。
パラオ人だけでなく、同じJICAの隊員やスタッフ、現地の日本人の方々にもたくさん助けてもらいました。感謝してもしきれません。
人には得意なこと、不得意なことがあります。自分の得意なことで誰かの力になり、自分の不得意なことは誰かに助けてもらう。そうやって支え合っていくのも大切なことだなあ、と感じました。誰かに助けてもらって嫌な気分になる人はいません。たとえその誰かが知らない人であっても、です。ということで、私はこの記事のタイトルにつけたように「人にやさしく」生きていきたい、と思っています。
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