2026/11/02 Mon
教育 活動
授業とは何か。―パプアニューギニアの教員養成校で問い直した「教育の価値」
こんにちは!パプアニューギニア小学校教育隊員の小山拓真です。
パプアニューギニアでの活動の日々の中で、ふと立ち止まり、考えさせられる瞬間があります。
先日、お世話になっている教員養成校で「授業づくり」をテーマに、授業を担当させていただきました。
授業では、多様な背景を持つ子どもたちが共に学ぶ教室において、「誰一人置き去りにしない授業を作るために必要な要素」について紹介しました。そして、その理論を頭で理解するだけでなく、実際に紙を使った分数のアクティビティを体験してもらいました。実際に手を動かし、視覚的に概念を理解していく。工夫する楽しさと可能性を伝えたつもりです。
しかし、学びはそこでは終わりませんでした。授業後、一人の学生から胸を突くような本質的な質問を投げかけられたのです。
「授業にはどれくらいの価値があると思いますか。」
その問いは、私自身、教育者としての原点を問い直すきっかけとなりました。
すぐに返答できなかった私は、後日、紙面でお答えさせていただくこととしました。
以下、学生の質問への私自身の返答だと思って綴らせていただきます。
社会的営みとしての授業、そして「教科の本質」
私は、授業とは「公的な使命を持った社会的な営み」であると考えています。だからこそ授業には対価(給与)が支払われますし、学校教育は国の根幹をなす仕組みとして社会に組み込まれているのです。「授業で社会を変える」と言うと、どうしても大袈裟な綺麗事に聞こえてしまうかもしれません。しかし、授業には単に知識を伝達させる以上の価値が無数に内在しています。
私自身、教員として子どもたちと向き合う中で、生徒が授業を通じて成長していく姿を数え切れないほど目撃してきました。それは単に知識量が増えたということではありません。「自分の頭でよく考えるようになった」「物事を多角的に捉えられるようになった」という、知的な自立のプロセスそのものでした。
一方で、「学校の授業なんて受けなくても、子どもは立派に育つ」という考え方もあります。確かに、その可能性を全否定することはできません。極論を言えば、社会科の授業で歴史や公民の知識を学ばなかったとしても、日々の生活を営み、社会で生きていくことは十分に可能でしょう。
では、なぜ私たちは学校教育の中で、わざわざ各教科を学ぶのでしょうか。 それは、各教科の「本質」にあります。例えば、私たちが社会科を学ぶ究極の目標は、一言で言えば「市民的資質(シチズンシップ)を育てること」にあります。単なる暗記ではなく、社会の仕組みを理解し、他者と対話し、より良い社会を主体的に創り出すための思考力を磨くこと。それこそが、日常生活のルーティンだけでは得られない、学校という場で学ぶ本質的な価値だと思います。
不条理な現実と、それでも信じ続ける理由
もちろん、理想論だけでは語れない現実もあります。
私の赴任先の学校でも、深刻な水不足によって授業自体が停止せざるを得ないなど、外部環境の影響によって子どもたちの学びの権利が制限される悔しい経験を共にしてきました。学校や授業だけで、社会の構造的な課題や理不尽をすべて解決できるわけではないことも痛感しています。
また、パプアニューギニアにおいてしばしば議論される「学校教育での学びが、卒業後の社会での仕事や生活と直接結びつかない」というギャップも、私たちが直面する大きな課題の一つです。学校教育だけで変えられる現実の方がむしろ少ないのかもしれません。「テストのための勉強」「社会に出たら使わない知識」と切り捨てられてしまう現実を目にするたび、教育の敗北感や悔しさに苛まれることもあります。
日々の授業改善に向き合うことなど、こうした社会の大きな課題や構造的な不条理の前には、ほんの小さな「さざなみ」に過ぎないのかもしれません。 しかし、草の根の活動とは「地道にやってなんぼ」の世界です。そして何より、一人の教師として、私は「授業の持つ価値」を信じ続けたいと思っています。
「学校教育での学びが、卒業後の社会での仕事や生活と直接結びつかない」と言われても、それは私たちが授業で手を抜く理由にはなりません。
日本の教室で、中学教師として生徒たちに伝え続けてきた言葉があります。
「授業には、自分自身を変える可能性が詰まっている。」
たとえそれがすぐに仕事に直結する技術でなくても、思考の引き出しを増やし、世界の見え方を変えるきっかけになります。たった一回の授業との出会いが、生徒の人生の可能性を大きく広げることがあるのです。その瞬間に自分の夢を見つける生徒もいれば、学問の面白さに心を奪われる生徒もいます。
パプアニューギニアの空の下、限られた条件や環境の中でも、学生たちは目を輝かせて「学ぶことの意味」を模索しています。授業とは、教師と生徒、そして生徒同士が知性を響き合わせ、お互いの世界を広げ合う奇跡のような時間だと思います。
私たちが教室で実施する一時間の実践は、世界を一変させるには小さすぎるかもしれません。ですが、目の前のたった一人の「内なる世界」を揺るがし、未来へと歩み出す一歩を踏み出させるだけの、確かな熱量を秘めています。
その価値を信じる限り、私はこれからも一プレイヤーとして、実践し続けます。
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