2026/02/06 Fri
スポーツ 文化
ウズベキスタンラグビーを通して考えた戦争と平和

執筆:森谷 理央(JICA海外協力隊2025年度2次隊/青少年活動)
はじめまして。この一月に来ウズしました森谷理央と申します。現在は、タシケント市 内の学校で活動を行わせて頂いております。 実は私、2022年から2024年迄、ラグビーという肩書で、ウズベキスタンに居 住していたことがあります。様々な御縁があり、再びこの地に戻って参りまし た。学生時代から現在に至る迄、ラグビーという競技を行っており、タシケン トにおいても、退勤後は、毎日練習に参加するようにしております。
かつてウズベキスタンという地で、共にラグビーという志を追い求め、時にはぶつかり 合い、泣いたり笑ったり、共に汗を流した現地人コーチ、選手達との再会は本当に胸に迫 るものがあり、感謝の念に堪えません。 今回は、当国のラグビーと当時の活動に少しだけ触れつつ、個人的に関心がある「戦争 と平和」について、現地でのラグビーに係る体験を通して書かせて頂きたいと思います。 旧ソ連圏に住んでいるということから、「戦争と平和」というと、トルストイを意識して いるように思われるかもしれませんが、特に関連はありません。学生時代にトルストイの 当作品には何度か挑戦したものの、読破できずにいるというのは余談です。
午後に活動を行っていた高校生とU23代表の混合チーム
そもそも、「戦争と平和」というテーマに関心を持ち続けているのは自身の祖父の存在 が影響しています。私の祖父は、第二次大戦が終結するまで、南満州鉄道の職員として、 中国北東部に駐在していました。「満鉄」は、事実上、関東軍をはじめとした軍隊と表裏 一体の存在だった為、諜報活動は勿論、現地の中国の方に対し、非常に辛辣な仕打ちをし ていたようです。そんな中、祖父は、軍の意思に反し、密かに現地人の方を助けたりする など、抑圧されていた、中国や朝鮮半島現地人の味方をしていたようでした。祖父のこう いった姿勢は、軍の反意を買い、時には、日本人将校達から殴る蹴るなどの制裁を食らい、 顔を軍靴で何度も踏みつけられることもあったと語っていました。 豪放磊落且つ破天荒で、少々放蕩癖のある祖父でしたが、一方で、何故か、朝鮮半島や 中国大陸に友人が多くいて、戦後、頻繁に渡航を重ねていたのは、こういった理由がある からかもしれません。 幼少期、学校生活で少々問題のあった私は、時たま祖父の家に預けられていたのですが、 祖父が酒を飲みながら、大陸での戦時中の出来事を話してくれたのを朧気に覚えています。 祖父が早くに亡くなったこともあり、個人的には祖父に対する思慕の念が常にあり、それ がやがて、戦争というものに対する関心も想起せしめたのではないかと思うのです。
話が横道に逸れますが、8年前、年度末で以前の職場を退職した私は、ラグビーボール と寝袋をバックパックに詰め込み、大阪発上海行きの船に乗り、大陸を横断するという旅 に出ました。理由としては、尊敬していたプロラグビー選手の方の海外武者修行の記事を 「Number」で読み、海外ではラグビーというものが如何なる形で存在しているのかを自身の目で確かめたかった事が一点。そしてもうひとつは、祖父の辿った形跡を自身も辿りつ つ、現地の戦争の遺構を訪ねながら、「戦争と平和」について考えてみたいと思ったから です。
結果的に、中国大陸からアフガニスタン国境までを横断し、ネパール、イン ドに辿り着き、インドで数カ月ラグビーをした後に帰国しました。南京の戦争 資料館を訪れ、その夜、宿で中国人旅行者達と酒を酌み交わしながら、先の大 戦について語り合ったこと、タジキスタンのアフガン国境で内戦時代から残さ れている地雷原に迷い込んでしまったこと、タジキスタンのとある村で泊めて もらった家のおばあさんが、タジク内戦時代のことを思い出して涙を浮かべて いたことは、自身の価値観に大きく影響を及ぼしました。そして、この旅の途 中のJICA関係者の方との出会いがきっかけで、ラグビー隊員を志すという決断 に至りました。
アフガニスタンとタジキスタンの国境沿い、ワハーン回廊。2018年時のもの。
前置きが長くなりました。次にウズベキスタンのラグビーについてお話したいと思いま す。 実は、ラグビーというスポーツは、ここウズベキスタンではあまり盛んではありません。 そこには、この国の運動に対する概念、政治的な影響等、様々な事情が混在します。旧ソ 連圏においては、ロシア、ジョージア、カザフスタンにおいては、ラグビーはかなり盛ん なのですが、ウズベキスタンは非常に対照的です。その為、前回のラグビー隊員時代は、 艱 難 辛 苦 の 連 続で あったというのが正直なところです。
U23 代表選手達とのスタッフミーテング。日本ラグビーの歴史と競技に向けてのマイン ドセットについて講義させて頂いた。
異国から突然来た見ず知らずの日本人という存在は、当初、彼らにとって仇敵でしかな く、四面楚歌の状態が長く続きました。配属予定だったチームからも除外されてしまい、 まさに五里霧中の状況でした。特に、同僚の南ア人コーチの辛辣な態度は本当に辛いもの でした。 突破口を見いだせないまま月日だけが無情に経って行ったある日、「こうなったら練習 や試合での自分のプレーを通して、実力を認めてもらうしかない」と思い、ウズベキスタ ン代表の練習に飛び込み、日曜以外は、全てラグビー漬けという日々を送りました。しか し、当時既にアラフォーと言われる年齢に差し掛かっていた自分にとっては、歳がひと回 り以上も若く、そして身体能力に秀でた選手達との練習の日々はあまりに負担が大きく、 焦燥感も相まって、練習試合中に大怪我をしていました。
その後、怪我は奇跡的に回復しましたが、その先には新たな試練が待ち受けておりまし た。八方塞がりで、最早これまでかと思い、赴任後10か月が経っても、帰国という選択肢 を視野に入れていたというのが正直なところです。しかし、とある大会が契機となり、そ の後の運命が変わることになるのですが、これ以上話が逸れると収拾がつかないので、紙 面の都合上、此方は別の機会にということで割愛させて頂きます。
ブハラの大学のラグビー部。スポットコーチングとして、数回出張へ行ったブハラは思 い出深い土地。
その後、紆余曲折を経て、敵対していたラグビー関係者との絆も生まれ、充実した生活 を送っていた任期満了二ヶ月前のある日、同僚の南アフリカ人コーチの家で、寿司パーテ ィーをしようということになりました。ウズベク人コーチ 2人も参加するとのことで、腕 によりをかけて巻き寿司を作っていきましたが、大量の寿司を皆瞬時に平らげてしまいま した。 ビールとウォッカを酌み交わし、宴もたけなわになった頃、南ア人コーチが、ぽつりと こう言いました。 「先の大戦中、80年前であれば、俺達は敵同士だったはずだ(旧ソ、南アは連合国側、日 本は枢軸国側)。それが今はこうして共にラグビーに携わっている。もし、80年前、俺達 と戦場で出くわしたとしたら、リオ、お前は俺達に対して引き金を引けるか」 この問いに、何故か私は即答できませんでした。幼少期に耳にした、「人が人でなしに なる、戦争っつうのはそういうもんだ」と、酒を飲みながら祖父が放った言葉がフラッシ ュバックしたのです。 暫くの沈黙の後、ウズベキスタンで素晴らしい同志に出会えたこと、そして何より平和 の下でこうしてラグビーに関われることに感謝の意を表する言葉を添えながら、南ア人コ ーチ、2 人のウズ人コーチ、皆で盃を干しました。ワインとウォッカを一人一本ずつ、1.5 Lサルバストビールをひとり三本ずつ開けていたのにも関わらず、頭が冴え冴えとしてい たのが不思議でした。
寿司パーティーの際の 一コマ。向かって手前、左がウズ元代表で現在コーチの現地民、右がワールドラグビーか ら派遣されていた南ア人コーチ
帰国後、日ソ戦争に興味を持った私は、関連書籍を探し回っていたのですが、個人的に 好きな作家である浅田次郎氏が、「終わらざる夏」という、千島列島最北端で行われた日 ソ間戦争を題材にした小説を書いていることを知り、購入してみました。本作品を読んで いる途中、度々、前述の寿司パーティーのことを思い出しつつ、もし自分がこの登場人物 であったらどう行動するだろうと考えました。何だか、これまで虚構とも現実とも覚束な かった、先の戦争というものが、寿司パーティーの一件以来、急に現実味を帯びながら、 自身に迫ってきたような気がするのです。 タシケントに再び戻って来た先日、約二年ぶりに、市内にある日本人墓地を訪れてみま した。シベリア抑留の折、旧日本兵の方々が捕虜にされ、強制労働に従事させられた史実 は皆さん御存知の事と思いますが、ここタシケントにおいても、多くの日本人捕虜が強制 労働を強いられ、その中で多くの命が亡くなりました。市内にはその方々の慰霊を祀った 石碑と墓地があり、現地の方が今でも管理をしてくれています。私と同郷の方も数名埋葬 されており、自身の故郷にはウズベキスタンと文化交流事業を行う団体も設立されていま す。
この日は穏やかな小春日和でした。墓地には誰一人おらず、ベンチに座り、静寂に浸り ながら目を瞑りました。隣接するモスクから祈りの声が微かに聞こえてきました。目を開 けると近くの空港から飛び立った飛行機がビルの上を横切っていきました。その瞬間、一 瞬だけ時間が80年前の過去に遡ったかのような錯覚を覚えました。
今から80年前に大きな戦争が確かにあった。そして、シベリア抑留の折、多 くの日本人がウズベキスタンに連れてこられ、残念な事に再び祖国の地を踏む ことのできなかった方も多くいた。そして、時を越えて、その日本から多くの 日本人がこのウズベキスタンを訪れ、また生活をしている。そのことを考える 度に、何だか粛然たる気持ちに駆られるのです。
旧日本兵の方々が眠る墓地。
正直、自分が現在行っている活動は、前回同様、非常に地道なもので、現地人の中に生 身で飛び込んで行くといっても過言ではない為、日々葛藤の毎日です。文化も習慣も宗教 も言葉も価値観も異なる現地の方に翻弄されることは、枚挙に暇がなく、その中で孤軍奮 闘するということは、時には無力感を伴うこともあります(前回ラグビーに携わった際は絶 望感すら感じていました)。 しかし、それが無為であるかと言えば決してそうとも言えないと思います。人はどうし ても、大きな志や偉業に意識を向けてしまいがちですが、寧ろ地道で些細な事こそが、大 きなうねりを生むのではないでしょうか。それは決して平和の構築といった点に関しても 無関係ではないと思います。それぞれの人々がそれぞれの分野で日々何かにひたむきに取 り組み、そのバトンを引き継いでいくこと、それがいずれ平和や社会貢献につながってい く気がします。自身の活動も、微かながらその一端を担っているという、責務と矜持を感 じつつ、筆を置きたいと思います。ここまでお読み頂きありがとうございました。
「平和への道はない、平和こそが道なのだ」マハトマ・ガンディー
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