2026/01/30 Fri
交流 人
6000kmの距離をつなぐ善意の架け橋

執筆:芦原知子(JICAウズベキスタン事務所企画調査員)
私はウズベキスタン事務所で企画調査員としてボランティア事業を担当しています。親日で、控えめで礼儀正しい人が多いウズベク人は、我々日本人の特性を理解し、生活面でも仕事面でも常に親身に、そして快く助けてくれる存在でした。
まもなく自分の2年の任期が終了となりますが、ウズベキスタンで体験した素敵な出来事のうち2つをここで紹介し、日本への帰路につきたいと思います。
<その1> スーパーでの出来事
2年前にウズベキスタンに赴任して1週間も経たない頃、あるスーパーマーケットで自宅用のワイングラス(ゴブレット)を買ったときのことです。気に入ったグラスに目をやると、現地通貨で1200円相当の値札が付いていましたが、その直前まで住んでいた島国の物価がかなり高く、同じようなワイングラスがほぼ同価格であったこともあり、そういうものなのかと思い2本を2400円で購入してしまいました。
そのあと数日が経ち、同じスーパーマーケットに食料品を買い物に行ったところ、一人の女性店員から話しかけられました。「間違っていたらすみません、もしかして、あなた先日ワイングラスを買った人ですよね?」
話を聞いてみると、私が2本分として2400円払った計算は間違いで、1200円で1本ではなく実は6本セットの値段であるとの説明でした。つまり2セット分を払った私は計12本、今自宅にある2本の他に、さらに10本もらえるというのです。
1人暮らしなのでそんなには要らないですね・・と告げると、では6本セットを1つ買ったことにして足りない4本を受け取り、別のもう1セットはキャンセルという形で1200円の返金を受けるのはどうか、という提案までしてくれました。初回の買い物時に自分のことを覚えて、後日このように自分たちの手間になる親切な提案を、わざわざ話しかけて持ち掛けてくれるということに心底驚いたとともに、とても感動しました。
ウズベキスタンで素晴らしいのは世界遺産や細密な工芸品だけでなく、このような、人の善意がちりばめられた出来事がよく起こるということだと思います。少し前の日本がそうだったように、自国に来た外国人に満足してもらいたい、そのようなマインドがあるのではないかと感じます。
<その2> 一階上にいた探し人
今から19年前、2007年1月に日本からウズベキスタンに一人旅をし、ウズベキスタン航空でタシケント発東京行き直行の帰路便に乗っていた時のことです。
早朝便だったため、機内に乗り込みウトウトしていたところ、やがて機内食が運ばれてきました。それまで周囲に無頓着でいたのですが、機内食に手をつけはじめたところで、隣の席に座っていた女性が完全に私の真似をしていることに気が付きました。私がサラダの蓋を取ると、彼女も同じようにサラダの蓋を取り、ジュースを飲んでコップを右奥に置くと、彼女も続いて同じようにジュースを飲み、同じく右奥に置くという具合です。
そこで、その20代半ばくらいの女性に話しかけてみたところ、サマルカンドで日本語教師をしているバホラさんという人であること、日本での2か月の教師研修に向かうところだということが分かりました。
さらに、飛行機に乗るのが初めてで勝手が分からないこと、急遽研修が決まり1歳くらいの自分の赤ちゃんを実家に預けてきたこと、埼玉の浦和に行くはずだが成田に到着後どうすればいいか良く分からない(迎えがあるのか無いのか不明)と言います。そして心配なことに、2か月の滞在に対し、手持ちの現金が150ドルである、ということも非常に気にかかりました。成田から浦和までいくらかかるのか、両替や機内食の食べ方も分からない人が無事に浦和にたどり着けるのかなど、そもそも2か月の食費はどうするのか、本人よりも自分のほうが不安いっぱいになり、自国日本人としての責任のようなものを感じ始めてしまいました。
ちなみに、特に当時の私は不規則な長時間労働に追われる生活で、知らない人への親切を積極的にできるような余裕ある人間ではありませんでしたが、自分がウズベキスタンで受けた旅行中の数々の親切が思い起こされ、この人をしっかり送り届けねばならないという使命感にかられていました。成田到着後は浦和の研修先に問い合わせたり大宮行の空港バスに乗せた後、翌月にはウズベキスタンへの帰国前にディズニーシーに連れていったりして、会ったのはこの2回だけでしたが自分自身にも楽しい経験をもらいました。
他の日本人と同じように、特別自分が親切なのではなく、特にウズベキスタンに行ったことのある日本人であれば同じような状況が目の前にあったら、きっと同じようにしたのではないかと思います。せっかく自国に来てくれたのだから満足してもらいたい、という自然な動機です。
しかし残念なことに、その後バホラさんがウズベキスタンへ帰国後は、こちらからのメールに返信がなく、連絡が途絶えてしまいました。彼女に一体何があったのでしょうか。
それから17年後の2024年、私は念願であったウズベキスタンへ赴任する機会に恵まれました。もし可能であれば任期の2年間で、あのバホラさんを見つけ再会できないか・・という希望も持って。
自分の手元にあったのは、「サマルカンドの日本語教師」、「バホラという名前と写真」のみの情報でしたが、早速事務所の現地スタッフに尋ねてみたところ、なんと今いる自分の事務所の一つ上の階の日本センター(UJC)で日本語教師をしていることが判明、もうすでに数十メートルの距離にいたのです。入国後3日目での再会でした。
さらにバホラさんは、ウズベキスタン海外協力隊のウズベク語訓練の担当でもあり、これから仕事上での関わりがあることも分かりました。まさか19年前の飛行機の隣の席に居合わせた若者が、将来的に一緒に働くことになる運命だったとは、その時はまるで想像もしていませんでした。どういう星の巡りあわせか、私がここへ来る1年前から、私たちの大切な隊員のために彼女は働いてくれていたのです。
バホラさんも突然現れた自分を覚えていたようで、驚き喜んでくれるとともに、日本からの帰国後に音信が途絶えてしまった理由について教えてくれました。
2007年当時、既婚女性が家族外に連絡を取ることに理解を得づらい風潮があったこと、メールを送るには市内のインターネットクラブという場所に行く必要があり、当時そのような場所への女性が立ち入ることは難しかったこと、やがてインターネットやスマホが普及してきた頃には、私の苗字が分からなくなっており「トモコ」と名の付く日本人へ当てずっぽうにメッセージを送っていたこともあったようでした。
そうして連絡は取れずにいたけれど、研修時代に出会った人や私の写真を自分の日本語学習の生徒たちに見せながら、いかに日本人が親切な国民性であるか、ということを今まで広めてきたのだと言われました。
その後、今日までの私のウズベキスタンでの2年間は、公私問わずバホラさんの善意で助けてもらったことのほうが、自分が彼女に対して行ったことよりも、遥かに遙かに多かったということは言うまでもありません。
自分のちょっとした思いつきの行動が、どのような形で将来的に返ってくるかはわかりません。あるいは自分ではない、他の知らない誰かに良い形で返っていくこともあろうと思います。
自身が発した行動を通じて、(私が本質的に親切な人間かどうかに関わらず)きっと相手は日本という国や日本人を捉え記憶にとどめ、逆に私は19年前のウズベキスタンでの短い旅行期間や、今の事務所の同僚との関わり、スーパーでの出来事などを通じて、自分の視界の中でウズベク人を自分なりに好意的に捉え、そしてそれを胸の中にずっと忘れずにいくのだと思います。これからウズベクを離れ、6000km先の日本に戻った後も、受けた恩義をお返しするチャンスを待ちながら。
協力隊員にも、自分に関わってくれた人が自分のためにしてくれたこと、言ってくれたことを忘れずにいてほしいと思います。たとえ、それが自身にとって厳しいものであっても、その後の自分が以前より楽にこの地に生きられる術(対応力)をくれた恩人、という捉え方もできます。
そして相手も同様に、自分との今日のささやかな思い出をずっと大切に忘れないであろうことを心に置いて、今日も元気に活動に向かってほしいと思います。
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