2025/08/22 Fri
歴史
「インド独立の志士 朝子」を読んで


日本に帰ってすぐ図書館からこの本を借りたのですが、なかなか読む気が起きませんでした。インドにいたらすぐ読んでいたんでしょうが。やはりこのブログはインドにいたから書けたのだと今になって思います。
さて、インドが意識からだんだん薄れていくなか、返却日が近づいたので読んでみたら、とても面白い本でした。朝子の家族を中心にしながら、日本におけるインド独立運動やインド国民軍のこと、スバス・チャンドラ・ボースのことなどが描かれていて、一気に読めました。
上の写真は朝子、本名アシャ・バーラティ・チョードリーが17歳のときの写真です。インド国民軍の軍服を着て、胸にはボースのバッチを付けています。アシャはインド人の両親のもと神戸で生まれ、日本の学校に通って育ちました。家ではベンガル語を話したそうですが、英語もヒンディー語も苦手で、日本語での表現が一番得意だったようです。
アシャの父サハーイは1923年に来日し、日本でインドの独立運動を行いました。チャンドラ・ボースと交流があり、のちにボースの右腕として活躍します。アシャの母もボースと知り合いで、一家そろってインド独立を目指すフリーダムファイター(独立の志士)でした。
写真は、昭和高等女学校(昭和女子大学)の同級生たちがアシャの出征を祝ってくれたときのもの。アシャは挨拶で「最後の別れを思うととても淋しくなりますが、国のためには何も惜しむことはなく、悲しいと考えることも罪だと思います。皆様が日本の勝利をお祈りなさる時、一日も早くインドも完全独立を得るようお祈りくださいませ。」と述べたそうです。
アシャはこのとき和歌を詠んでいます。
新しく 生まれ変わりて一兵と なりたまいしも 心淋しき
和歌で自分の気持ちを表現できるほど、日本語と日本の文化に通じていたということにびっくりします。
さて、前後しますが、ボースのインド国民軍婦人部隊について簡単に書いておきましょう。隊はジャーンシー王妃連隊といい、ボースが命名しました。1857年のインド大反乱の時の英雄ラクシュミー・バーイーの名をとっています。(インドのジャンヌ・ダルクと言われています)
写真は婦人部隊の指揮をとったラクシュミー・スワミナタンとボース。彼女の写真はデリーのJICA事務所近くのメトロ駅の構内に飾ってありました。私はその写真を見てはいましたが、この本を読むまでどんな人なのか知りませんでした。
ラクシュミー・スワミナタンはマドラス(チェンナイ)出身で、シンガポールに渡り医師をしていました。1943年にボースの演説を聞き、独立運動に身を投じようと決心します。「独立闘争を行うことは、外敵を追い払うだけでなく、男性による圧迫や服従からも解放を勝ち取れる。来たるべき戦いには大きな危険が伴うが、それを受け入れる覚悟があるなら、婦人部隊の指揮を執ってくれまいか」というボースの説得に、二つ返事で引き受けました。
婦人部隊の規模は最大で約1000名。歩兵部隊と看護部隊に分かれ、シンガポールで軍事訓練を受けました。インパール作戦に参加しビルマに出兵しましたが、主に看護部隊として活動したようです。ラクシュミー・スワミナタンは敗走し捕虜となりますが、戦後インドに戻りました。
さて、アシャは1945年5月バンコクでジャーンシー王妃連隊に入隊しました。17歳でした。ジャングルで軍事訓練を受けましたが、マラリアにかかってしまい入院、結局そのまま8月15日を迎えました。入隊したのが遅く、そのために戦闘には参加できませんでした。
戦後、アシャはバンコクで除隊し、知り合いの家に滞在しました。父のサハーイはシンガポールでイギリスの捕虜となりました。そして母や妹たちは日本にいました。家族がばらばらの状態でしたが、のちにインドで再会します。
インドは1947年に独立しますが、その原動力となったのが、インド国民軍裁判です。戦後、イギリスは、チャンドラ・ボースのインド国民軍に参加した英印軍将兵3名を裁判にかけました。英国王に対する反逆の罪というわけです。
これに対してインドの民衆から、祖国解放のために戦った者たちを裁きにかけるとは何事かと、猛烈な反発が起こりました。インド国民会議派は弁護団を作り、ネルーも裁判に参加しました。裁判では弁護側の証人として、F機関を率いた藤原岩市やビルマ方面軍参謀を務めた片倉衷らも召喚されました。
結局、裁判は検察側の求刑どおり全員に無期懲役の判決が下されましたが、反英感情に拍車がかかるのを恐れたイギリスは、刑の執行停止と英印軍からの除名を決定しました。これは事実上、被告側の勝利といえます。
3人とは別に国民軍関係者に対する裁判も行われていましたが、ネルーらの強い反対もあって中断され、その後、新たな裁判が行われることはなかったそうです。
チャンドラ・ボースはビルマでラングーンに退却するとき、インド国民軍の士官から「万が一、英軍の捕虜となったとき、自殺するべきでしょうか、それとも軍事裁判に出廷すべきでしょうか」と尋ねられて、「裁判を選ぶべきだ」と答えています。
そしてその理由を、「法廷で証言することでインド国民軍の真実を世に伝えることができる。イギリスがどれだけ秘密裏に裁判をやろうとしても、情報は必ず外に漏れるのだから」と言ったそうです。
私はインドにいるとき、スバス・チャンドラ・ボースこそがインドを独立させたのだという何人かのインド人に会ったことがあります。人に対して誠実で、インドの独立に命をかけた革命家のボースは多くの人を魅了し、今も多くのインド人に尊敬されています。
ボースは日本が降伏した後、ソ連(ロシア)に行こうとしました。ソ連の力を借りてインドを独立させるためでした。そのため台湾から大連に向かう飛行機に乗りましたが、その飛行機が離陸後に墜落して全身に大やけどを負ってしまいます。
瀕死の中でボースは部下に「私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国の人々に、インドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言ったそうです。
ボースは台北で荼毘に付され、遺骨は極秘で東京に運ばれました。そしてアシャの母サティに預けられました。イギリスに戦いを挑んだボースの遺骨を保管することは大きなリスクを伴うことでしたが、サティは怯まず応じました。
そして、ボースの葬儀を行ってくれる寺院を探しましたが、どこからも良い返事は得られませんでした。そうした中、杉並区高円寺の日蓮宗蓮光寺が葬儀を引き受けてくれることになりました。8月18日の命日には今も多くのインド人が訪れるのだそうです。私もいつか訪ねてみたいと思っています。
最後に、朝子ことアシャ・バーラティ・チョードリーは今月8月12日にパトナで亡くなりました。97歳でした。(合掌)写真は今年の4月に駐インド日本大使の訪問を受けたときのもの。写真に写っている本は、アシャが1973年にヒンディー語で出版したものです。
当時、彼女のもとには多くの手紙が寄せられました。「アシャさん、あなたは実に幸せです。自分も国のために戦いたいが、そんな機会はめぐって来ないでしょう」と書かれた手紙に対し、アシャは次のような返事を送ったそうです。
「戦いはこれからです。あなたはインドを立派な国にして、全てのインド人が有益な国民となるよう仕上げる役割と責任があります。未来はあなたの手にかかっているのです」
インドにはフリーダムファイターがたくさんいて、今も国民に尊敬されています。その中でも、ボースやアシャ、アシャの父母、他にも多くのフリーダムファイターが日本と関わりました。インドが親日国である理由の一つがここにあると私は思っています。
インドは本当に魅力のある国です。歴史も文化も自然も人も食べ物も、まるで底なし沼のように尽きない魅力があります。そんな国に2年間生活できてとても幸せでした。関わったすべての人たちに感謝したいし、また、忘れないようにしたいと思います。
私のブログは今回で終わります。これまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。このブログを書きながら、インドのことをたくさん知ることができました。これからもインドに関わっていきたいと思いますし、またインドに行きたいと思います。Thank you, India! ピルミレンゲ!(また会いましょう!)
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