2025/05/19 Mon
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ガンディーについて 4


写真はラージ・ガート。ガンディーが荼毘に付された場所で、石碑には最後の言葉「へー・ラーム」(おお神よ)が刻まれています。インドの人たちは、みな時計回りに歩いて写真を撮ったり、祈りを捧げたりしていました。
さて、ガンディーの最終回は、不可触民の問題についてのガンディーの考え方や活動について考えてみたいと思います。私はインドに来る前、アンベードカルの本を読んで、不可触民差別を無くそうと運動したのがガンディーではなくアンベードカルだと考えるようになったので、ガンディーを否定的に見るきらいがありました。
ガンディーは熱心なヒンドゥー教徒であり、カースト制度は認めていました。ただし、ガンディーの考えるカースト制度は身分の上下のないもので、職業が世襲されてそれが社会的な分業につながり、社会が安定すると考えていたようです。
しかし、彼は、不可触民制は罪悪だと考え、不可触民差別を無くすようにインド全土で訴えました。自分のアシュラムに不可触民を受け入れたりしているし、南アフリカ時代からトイレ掃除なども交代で行っていました。
ガンディーは、不可触民制の撤廃はヒンドゥー教の内部で行なわれるべきであると主張しました。そして、この制度は4つのカーストがつくり出した罪悪であるから、その撤廃にはカースト側の懺悔・改心がまず必要であると説きました。不可触民解放はカースト側の主導のもとに行なわれるべきだという主張でした。
これに対して、アンベードカルは、不可触民制を生んだのはカースト制度であり、ヒンドゥー教の差別主義であると主張しました。そして、不可触民制を廃するためには、カースト制度とヒンドゥー教を葬り去るとともに、不可触民自身が自覚し、団結し、向上しなければならないと唱えました。不可触民解放の主導権は、あくまでも不可触民がもつべきだというのです。
私には、アンベードカルの意見の方が分かりやすいです。アンベードカルは自分が差別被害にあっているので、差別の根っこはヒンドゥー教とカースト制度だと見抜き、晩年ヒンドゥー教徒を止め、仏教徒に改宗しました。首尾一貫しています。
不可触民たちが、ガンディーが名付けたハリジャンという言葉を使わず、アンベードカルが使ったダリットと自分たちのことを呼んでいることから見ても、彼らがアンベードカルを支持しているのは疑いがないと思います。
不可触民問題への貢献については、どう見てもアンベードカルだろうと思っていましたが、検索していたら、次のような記述を見つけたので紹介します。
このように見た時、アンベードカルの存在なしに、ガンディーはこれほどの成果をおさめる事はできなかったかもしれない。同じように、ガンディーが作り出したヒンドゥー教における自由主義的・寛容な空気がなければ、アンベードカルがこの冷酷なカースト社会であれほど許容される事は無かったかとも思われる。
素晴らしい考え方です。確かにガンディーがいなければ、アンベードカルはあんなに活動できなかったかもしれません。そして、ネールにアンベードカルを初代法務大臣にするよう忠告したのもガンディーだと言われているので、ガンディーが不可触民の地位向上に果たした役割はこういうところにあったのかもしれません。

最後に、一つトピックを書いて終わりにしたいと思います。ノーベル平和賞のことです。実はガンディーは1937年~1948年の間に5回ノミネートされました。しかし、受賞には至りませんでした。だれでも「なんで?」と思うでしょう。
推薦しない理由と言うのが「ガンジーの有名な南アフリカにおける闘争はインド人のためだけのものであり、生活状況がさらに劣悪な黒人のためのものではなかった点は重要であるといえよう。」ということらしいのですが、これでは理由にはなっていません。
結局、ダライ・ラマが1989年にノーベル平和賞を受賞したとき、選考委員長は、ダライ・ラマの受賞には『ガンジーの記憶に対する賛辞という意味合いもある』と発言したそうです。ガンディーに平和賞をやるべきだったと認めた形です。
でもまあ、当のガンディーはノーベル平和賞にはあまり興味がなかったかもしれません。この人は真理を追究する求道者だから、他の人からの評価には関心がなかったのではないかと思います。

ハビタット・センターのガンディー展。多くの人が訪れて、ガンディーの資料に見入っていました。ガンディーは偉大な人でしたが、それは彼一人の力ではなく、インドの宗教や哲学、そしてそれらと共に生きるインドの人たちによって生み出された人のような気がします。
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