JICA海外協力隊の世界日記

アンデスの田舎町から

最後のひと月

2月3日に任期を終えて日本に戻ってきましたが、最後のひと月は増えてしまった荷物の処分を筆頭に、最終報告などで追われる日が続きました。

(4週間前)

まず、年が明けた1月10日金曜日に、市役所が主催するイベントQuincenarioがありました。各課がパレードに参加する為に、その日に向けて職員達が早めに仕事を片づけて、ダンスの練習をします。当日はイベントをアナウンスする車が朝4時から走り回り、ドンドンと花火をあげて町中を叩き起こす騒ぎです。いつもなら私は合気道の道着を着て、手を振りながらパンフレットを配ったりするだけですが、今回は市役所の皆と一緒に初めてダンスに加わりました。道着姿でのダンスが、“武道”を穢すのではないかという思いが頭をかすめました。

(3週間前)

その1週間後の週末の18日にも各コミュニティが参加するパレードがあり、この時は大家さん一家に混じり、民族衣装を着てダンスのペアを組みました。現地の人に溶け込んでいるつもりでしたが、道路脇の見物人からSuzuki!とかMuy bien!と声がかかり楽しかったです。そしてウェブニュースを配信している知り合いのエドウィンが、ダンス姿を中継してくれました。

二つのパレードに挟まれた14日に、活動結果の報告を市長さんと役員の方々を前に行いました。最初は市役所内部の人向けに行うつもりだったのですが、私が帰った後でも活動を継続してもらうには、関わっている当事者の理解が必要だと思い直し、直前になって一般の方々にも声を掛けることにします。急なお願いになってしまいましたが、推進中だった販促プロジェクトの関係者が10名近く集まり、報告を聞いてもらうことができました。

16日木曜の午後に、昨年5月のガラパゴス旅行で滞在したホテルのアマンダさんから電話を受けます。パタテ市と同じ県のアンバトに実家があるので、「戻った時に会いましょう」と、以前から約束をしていました。彼女に頼まれていたホテルのウェブサイトの見直しの件で、打ち合わせをするのが目的だったのですが、なかなか会えずに諦めていたところです。

これからパタテに行くと言われ、急遽現状のウェブサイトの課題と対策案を、手書きのメモにまとめます。アンバトには他の親族も集まっていたようで、お姉さんやおじさん、娘さんら5人ほどを連れてまもなくやってきました。彼らも久しぶりの再会を楽しんでいるところだったので、手短にメモを見せながら説明をします。グーグルマップにおけるホテルへのアクセス数が2週間で20万件に達しているデータを示すと目の色を変え、俄然サイトの見直しにやる気が出てきたようでした。ホテルのグレードに見合った顧客ニーズを意識して、ホテルの魅力を手短に伝えられる構成に変えるつもりです。作業は日本に持ち帰らざるを得えなかったので、落ち着いてから取り組むことにしました。

17日金曜日には、前の世界日記でお伝えした通りメルセデスさん夫婦が事務所にやってきました。近くに来ていてこれからパタテに行くとのことで、3時頃から市役所が閉まる5時までお付き合いをすることになります。

翌日の土曜日には、最初に触れた通りコミュニティのパレードがあり、大家さん一家とのダンスのために、練習と本番、そして打ち上げの集まりに参加しました。

19日の日曜日は、毎週末に開かれるパタテの苗木市のフェリアに行きます。マーケティング支援のボランティア活動において、途中からウェブサイトを使った販売促進に力を入れていました。そして12月後半から、このフェリアでお店を出している60名前後の人達を紹介するためのサイト作りを始めていました。調査用紙を配り各自の情報を集めていたのですが、オーナーが不在だったり、理解してもらえずに面倒くさく思う人がいて、足繫く通っていたところです。

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(2週間前)

翌週からは、2月初めに行われる教会を祭るイベントの準備が本格化しました。去年はエクアドル国内の治安上の問題で緊急事態宣言が下され、開催されなかったものです。同僚のダニエルは、「ものすごく規模が大きくて全国に知れ渡っている」と、自慢していました。キトやグアヤキルからも露天商がやってくるので、出店の道路使用許可手続きの為に、私の部署でも人が絶えません。市役所ではパタテの観光をアピールするために、市内からの出店者も募っていて、私は顔見知りの出店希望者達とともに、売り場の確認に立ち会いました。当日の宣伝方法が気になりましたが、残念ながらその直前の帰国となります。

週末の土曜日25日は、前の世界日記で触れたように、ウィラックさんからお別れの昼食に招かれました。帰り途に、マーケティングの手伝いをした果物などの産直販売所にお別れの挨拶をしに行き、その足で同じコミュニティにある養蜂家のギジェルモさんの家に寄って、日本へのハチミツの輸出案件で、アドバイスと励ましをしてきました。

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26日日曜日は、先週に引き続きウェブサイトを制作中の苗木市のフェリアに行きます。フェリアの役員の人に私の帰国のことを伝え、私の代わりに必要なデータの収集をお願いをしてきました。帰国後の今もWhatsAppでコンタクトを続けています。

(最後の週)

27日

週が明けてからは、パタテを去るまで3日しか残っていません。月曜日は、書類をファイル1冊にまとめ、データを入れたCDROMとともに仕事の引継ぎをしました。この日は翌日の1月28日が私の誕生日だった為に、仕事の後、ボランティア活動のカウンターパートのダニーロが、ご家族と一緒にレストランでお祝いをしてくれました。

28日

そして28日に最後の追い込みをしようと思っていたのですが、席についてしばらくすると同僚から、これからすぐに出かけるからパソコンを片づけるように言われます。部署の6名皆がその日に休暇を申請していて、サプライズで私を連れだすことになっていたようです。目の前に置いた仕事が気になって仕方がありませんでしたが、彼らも2月のイベントの準備で忙しいところ時間を割いてくれて申し訳ない気持ちで一杯です。2時間以上車に乗ってプールのある施設に連れて行かれ、ケーキを食べビールを飲みながら丸一日一緒にくつろいで過ごしました。

帰途に着く直前には、大家さん一家から夜にお別れのお茶会を開くとの連絡があり、8時過ぎに帰ってから隣のお宅に伺いました。日本へのお土産として人形と織物を頂き、夜食をご馳走になりました。

29日

翌朝の出発を前にして、29日は休みを取って荷物のまとめと部屋の掃除をする予定でしたがままならず、家と事務所を何度か往復しながら最後の片付けをします。午前中、ジャムコンクールの時に記念品を作って頂いた、木彫り作家のアリリオさんが挨拶に来てくれました。彼は売るための彫刻を作っていないので、たいていの作品は手放さずに作業場に残しています。何かのイベントで市役所から頼まれた時に披露しているのですが、それらの作品の中で、何度か見かけたことのある、ご自慢の手の平を模写した彫り物を、お別れのプレゼントとしてもらいました。

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午後には、土曜日に挨拶に行った産直販売所の人がプレゼントのポンチョを持ってやってきました。実は前日に大勢で事務所に挨拶に来てくれたのですが、私が誕生日祝いで連れ去られた為に会えずに、後から皆さんの残念そうな顔が移った写真が送られて来ていたのです。

夕方4時に教会の神父さんに会いに行きました。市役所に隣接する教会と博物館は、私のお気に入りの場所で、特に祭壇や博物館にある沢山の聖者像の表情に魅了されていました。そしてその価値があまり評価されていないような気がして、多くの人に気が付いてほしいと思い、昨年の半ばから頻繁に撮影に行きウェブサイトを作っていたのです。午前中に、今日がサイトの公開の許可を得る最後のチャンスだと、切羽詰まった思いで教会に行ったのですが神父さんには会えず、秘書の人に面会を依頼して資料を預けていました。神父さんには初めてお会いするので、クリスチャンでもない自分がこんなことして喜んでくれるのか心配だったのですが、大変感謝されました。資料に目を通してくれており、記述の誤りを何か所か教えて頂き、公開にこぎつけた次第です。

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https://zentousan.my.canva.site/bas-lica-y-museo

その日の業務終了後に市長が開催するお別れ会があり、17名の方が集まってくれて郊外のレストランで食事をしました。市の予算は底をついているので、きっと市長さんが自腹で皆を招待し開いてくれたのだと思います。(もしかして皆さんも無理やり会費を払っていたのかもしれませんが、、、) 市長や理事の方々からお言葉を頂いたうえに、感謝状の楯を渡されました。さらに記念品としてこの地方に生息する獏“Tapir andino”の木彫りをプレゼントされます。これもアリリオさんの作品で、彼は午前中、事務所にやってきて手の彫刻をくれた後、私に隠れて秘書室にこれを届けに行っていたのだと思い当たりました。

この会が最後のお別れとなって、翌朝パタテを出発しました。

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31日

帰国前の活動報告を、キトのJICA事務所で行いました。当初の計画表に掲げた数値目標は、全て未達という結果報告でしたが、そこにあらわれない人々との思い出に満ちた活動になりました。嫌な事もあったはずですが、埋もれてしまっています。

ふりかえればエクアドルでの語学研修時に、日本でイチゴ一粒を1000円で売っている話に注目して調べていました。そして現地での自己紹介の時に、この町でもできると見栄を張ってみたものの、そのメッキが剥がれないことを祈る日々がありました。マーケティングが自分の専門分野ではないことへの引け目があったのですが、そのために変なこだわりや先入観が無かったことが良かったのでしょう。畑の中で農家の方々に会い、作物や鶏、豚、牛を眺めて過ごすなかで、自分のできそうなテーマが見えてきました。そして、幸い“スズキ”という現地でも聞きなれた名前であったことも利に働き、何度も顔を合わすことで親しんでもらえて、活動が続けられたのだと思っています。最後の1か月で二年間を振り返ることができて、日記を書きながら皆さんの顔を思い浮かべています。

(世界日記完)

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