2025/02/18 Tue
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理学療法士隊員 / 年末年始前後にあるフィジーの3大行事+最近気が付いた私の思う日本人の宗教観

遅くなりましたが…あけましておめでとうございます!!
フィジーにいると常夏の気候のせいで、今が何月かを忘れてしまいます。そして、あまり得意ではなかったはずの寒さや雪が、とても恋しく感じます。やはり日本の四季は素敵ですね。
この数か月で、フィジーでは3つの大きなイベントがありました。
ヒンドゥー教の一大イベント『Diwali』
別名「光のお祭り」とも呼ばれています。その名のとおり、Diwaliの前後1週間ほどは、至るところで花火が打ち上げられていました。ただ、日本の花火とは異なり、「光」というより「音!!」という印象のものばかり。同僚になぜ光より音が重視されるのか尋ねたところ、「More Fun!」とのことでした。
また、手持ち花火もわずかに売られていましたが、こちらでは「子ども向けの花火」だそうです。店員さんにそう教えてもらいましたが、それでもしっかり購入し、日本と同じように楽しみました(笑)。職場のみんなでDiwaliに合わせてインドの伝統衣装を着てインドのスナックを楽しみました

クリスマス in Fiji
初めてのフィジーでのクリスマス。
11月のDiwaliが終わると、街は徐々にクリスマスカラーに染まっていきました。場所によっては、ココナッツの殻や葉で作られたクリスマスツリーも登場。波乗りサンタを期待していましたが、残念ながら今年のクリスマスは大雨に見舞われ、各地で洪水被害も発生しました。
フィジーのキリスト教徒の人々にとって、クリスマスは朝から教会でお祈りを捧げる大切な日なのだそうです。
職場では、みんなでクリスマスパーティーが開かれました。
プレゼント交換は「シークレットサンタ」という方法で行われ、事前にくじで決めた相手にプレゼントを渡しました。誰からプレゼントをもらうのか分からないドキドキ感に、まるで子どもの頃のようにわくわくしました♪ちなみに、渡してよく喜ばれる贈り物はお酒と香水だそうです。
お正月 in Fiji
日本では年末年始といえば、一年で最も重要なイベントのひとつですが、フィジーではクリスマスのほうが盛大に祝われているように感じました。驚いたのは、政府機関を含め、ほとんどの職場に年末年始の休みがないこと! 祝日は1月1日のみで、1月2日からは通常通りの平日になります。
幸運なことに、私の配属先は珍しくしっかりと年末年始の休みがあったので、のんびりフィジーを満喫できました(笑)。
日本では、大晦日は家族で集まったり、お寺にお参りに行ったりしますよね? 私が年越しを過ごした場所では、0時になると数回花火が打ち上げられました。同僚の話では、地域ごとに人々が一か所に集まり、みんなでカウントダウンをするのが恒例だそうです。

日本の宗教観とは???
フィジーで過ごしていると、さまざまな宗教が共存していることを実感します。それぞれの宗教には異なる価値観や考え方、生活スタイルがあり、それを知る機会も多くなりました。そして、「日本ではどうなの? あなた自身は何を信じているの?」とよく聞かれます。
日本人の多くは仏教徒とされていますが、実際には「無宗教のようなもの」だと感じている人も多いのではないでしょうか。私たちは、お寺で仏様に手を合わせる一方で、神社で神様にもお参りします。結婚式は教会で行うこともあり、ハロウィンやクリスマスも楽しむ。特定の宗教を強く信仰するわけではなく、「自分を信じて、自分の信じた道を歩む」というスタンスの人が多いように思います。毎週末に礼拝に行くわけでもなく、日常の中で宗教を意識する機会といえば、食事前後の「いただきます」と「ごちそうさま」くらいかもしれません。
私もずっとそう思っていました。しかし、最近あることに気づきました。ある日、同僚と話していると、「仏教って、他の宗教と違って“ブッダの教え”を説く宗教だよね?」と言われ、ハッとしたのです。
もしかすると、私たちは 「どこかに祈る」 という形の宗教を持たないだけで、実は仏教の価値観のもとに生きているのではないか? と考えました。思い返せば、小さい頃から 「自分がされて嫌なことは人にしない」「正しいと思うことをしなさい」「物を大切にしなさい」 と教えられて育ちました。これらはまさに 仏教の教え そのものではないでしょうか。知らず知らずのうちに、私たちはその価値観を受け継いできたのだと感じます。
フィジーに来て気づいたことですが、道端にはポイ捨てされたゴミが散乱していることがよくあります。また、「ちょうだい!」と言えば、他人の物を気軽にもらえる文化もあります。こうした光景を目にしたとき、私は違和感を覚えました。それは、私自身が「物を大切にすること」「人の持ち物を尊重すること」を 当たり前のこと(=正義) だと信じて育ってきたからなのだと、今になってフィジーで気づかされました。