JICA海外協力隊の世界日記

ナミビア便り

#75_150年の歴史が息づく、任地オマルルを再発見!

スクリーンショット 2026-06-10 164417.png

 皆さん、こんにちは!2025年度1次隊ナミビア小学校教育派遣の沢田 美百合(さわだ みゆり)です。

 2025年8月から、JICA海外協力隊としてナミビアのオマルルに来ています。

 今回は、私の任地オマルルの歴史について、現地の方に案内していただきながら学んだことをお伝えします!

 150年以上も街を見守ってきた、オマルルで1番古い建物!

 街の中心にある「オマルルミュージアム」は、現在のオマルルに残っている建物の中では最も古い建物です。この建物は1870年にドイツ人宣教師によって建てられました。当初は、教会として建てられ、原住民族であったダマラ族やサン族、またオマルルに移動してきたヘレロ族にキリスト教を伝える場所でした。しかし、その後は学校として使われたり、戦争時には病院として使われたりしました。郵便局として機能していたこともあったそうです。役割を変えながらずっと街を見守ってきたオマルルのシンボル的建物です。1986年には政府によって正式に「国家記念物(National Monument)」に指定され、オマルルの歴史を伝える博物館として一般に公開されるようになりました。中に入ると、とても涼しくて驚きました。壁の厚さは20cmくらいあり、また粘土でできているので、夏は涼しくて冬は暖かいのだそうです。ミュージアムの中にはたくさんのオマルルの歴史を伝える資料や昔使われていた道具がありました。

IMG_20260609_161400625.jpg

 オマルル役場で働いているジョゼフさんに案内していただきました。オマルルの歴史にとっても詳しくて何を聞いてもわかりやすく教えてくれたので頼もしかったです。そんな彼はウォルビスベイ出身。

 ヘレロ文化とともに歩んだ街、オマルルの歴史

1860年以前】先住民族の穏やかな暮らし

 まだ「オマルル」という名前が付くずっと前、ここには地下水が豊富な川(現在のオマルル川)がありました。そのため、昔からダマラ族やサン族(アフリカ南部由来の先住民族)の人々が水を求めてこの場所に集まり、狩りをしながら暮らしていました。

18601870年】ヘレロ族がやってきて、“オマルル”誕生!

 そこへ、オマルルの南の方(オチビンウェ:Otjimbingwe)に住んでいたヘレロ族の一派が、南部から来たナマ族に追いやられてオマルルへ移動してきました。ヘレロ族は昔から牛をとても大切にしていて、牛はただの家畜ではなく、家族であり富のシンボルでした。また、ナマ族は銃や馬を操りながら牧畜を行う民族でした。そのため、牛を育てるために必要な牧草地をめぐって、ヘレロ族とナマ族の間で激しい戦争が絶えませんでした。移動してきたヘレロ族のリーダー、ヴィルヘルム・ゼラウアはこの地に豊かな水と草原があるのを見て、「ここを自分たちの本拠地にしよう!」と決めました。この時、オマルルの苦い草を食べて育った牛たちのミルクが苦かったことから、「ミルクが苦くなる草が生えている水場(オメヴァ・オマルル:Omeva Omaruru)」と呼ばれ、ヘレロ語で「苦い牛のミルク」を意味するオマルル(Omaruru)が地名となりました。

18701880年】オマルルがナミビアのカルチャーマーケットに!

 スウェーデンから来たアクセル・エリクソンという商人がオマルルにやってきて、街に大きなお店や倉庫を建てました。また、銃などの武器を持ち込んで取引したり、その銃を使って手に入れた象牙や動物の毛皮を売ったりしました。さらに、オマルルでは乳製品やビールの製造が盛んだったこともあり、オマルルはたくさんの人・物が流通するナミビアの一大マーケットになっていきました。

IMG_20260609_133152326.jpg

左がヘレロ族の一派の首長、ヴィルヘルム・ゼラウア   右がスウェーデン人の商人、アクセル・エリクソン

IMG_20260609_161305095.jpg

1870年代からはビールの醸造が盛んになり、ブルワリーもあったそう。これらは当時、ビール醸造に使われた道具で、実際に触ることもできて楽しかったです。

1904年】ドイツ軍との戦争と「フランクの塔」

 しかし、ドイツによる植民地支配が進む中で、ドイツ軍とヘレロ族との対立が深まっていき、1904年にはドイツ・ヘレロ戦争が起こりました。戦闘だけでなく、ドイツ軍によってヘレロ族やナマ族が迫害されました。ある民族・人種・宗教・国民集団などを消滅させる意図をもって虐殺が行われることをジェノサイドといいます。この戦争やジェノサイドを通して、当時ナミビアにいたヘレロ族の80%(約6万人)、ナマ族の半数(約1万人)もの人々が亡くなったと言われています。この戦争を記念してドイツ人将校、ビクター・フランクの名前をとって建てられた「フランクの塔」は今でもオマルルの悲劇を忘れないように大切に残されています。このような歴史もあり、現在でもオマルルにはたくさんのドイツ系白人の方が住んでいます。

IMG_20260609_132446424.jpg

オマルルミュージアムに展示されていたジェノサイドに関わる写真。当時の悲惨な状況が伝わってきて、心が痛みました。

IMG_20260609_154818610.jpg

街のはずれに静かに建っている「フランクの塔」。この塔に登ったとき、建てられてから120年ものあいだオマルルの街を見守ってきたんだなぁと思うと、胸がいっぱいになりました。

IMG_20260609_153031361.jpg

「フランクの塔」から見えた景色。奥に見える山々がエロンゴマウンテン。戦争の時、手前に見える草原でたくさんの人々が亡くなったそう。そのため、この場所には建物を建ててはいけないきまりがある。

IMG_20260609_154842260.jpg

塔の下には、当時ドイツ軍によって使われていた大砲があった。実際に乗ることもできて、火薬を入れる部分なども触ることができた。

【南アフリカ統治~現在】歴史と文化を大切にする静かな街、オマルルへ

 第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、ナミビアは南アフリカによって統治されるようになりました。以後は、農業や牧畜が再び盛んとなり、ナミビアでは珍しいワイナリーも作られました。現在のオマルルは昔ほどの活気はありませんが、ドイツ植民地時代の歴史やヘレロ文化などを感じられる静かで穏やかな街です。

IMG_20260609_161849555.jpg

これはオマルル役場に掲げられているオマルルの紋章です。

つるはし→オマルルの鉱山業

弓矢→先住民族の狩猟生活

青い十字→ドイツ人宣教師が伝えたキリスト教

サソリ→オマルルには昔、たくさんサソリがいたから。オマルルの中にはヘレロ語でサソリを意味する「オコソンジェ(Okosondje)」という地名があるほど!

真ん中の赤い建物→フランクの塔

青と白の模様→オマルル川

FAITH&COURAGE→信念と勇気

 最初、オマルルに来たときはとても静かで少し寂しいと感じることもありましたが、街を歩けばトラックでたくさんの牛が運ばれていたり、ヘレロドレスを身にまとった人々が歩いていたりして、面白い街だと感じるようになりました。また最近は、その静かな雰囲気が心地よく、私にとって「帰る場所」のような存在になってきました。毎日、夕方に散歩をするのが日課なのですが、オマルル川から見るこの景色が大好きです。今は毎日見られる景色だけど、あと何回見られるかな…と考えながら眺めています。今回、自分の任地オマルルについて調べてみて、街に対するイメージや見方が変わりました。ナミビアに来る前はもちろん名前も歴史も何も知らない場所だったのに、今では人々とのつながりを通して、特別な意味をもつ場所になっています。たまたま私の任地となったオマルル。世界中にたくさんの街がある中で、この街と出会えた縁を大切にして、これからもオマルルでの生活を楽しんでいきたいです。

IMG_20260604_182626255~2.jpg

SHARE

最新記事一覧

JICA海外協力隊サイト関連コンテンツ

  • 協力隊が挑む世界の課題

    隊員の現地での活動をご紹介します

  • JICA 海外協力隊の人とシゴト

    現地の活動・帰国後のキャリアをご紹介します

  • 世界へはばたけ!マンガで知る青年海外協力隊

    マンガで隊員の活動をご紹介します

TOPへ