JICA海外協力隊の世界日記

パラオ便り

人生の羅針盤は、いつも心の中に【パラオ×野球】

JICA海外協力隊・パラオで野球隊員をしている鈴木陸です。今回は、私が協力隊になった経緯から、現在の活動までを紹介できればと思います!

1. 協力隊を知ったきっかけ

母校の教師として勤務を始めて、5年目の冬。

中学3年生の公民科では、国際協力の単元があり、その日は【ODA】に関する授業展開をしていた。

NHK for School(教師なら本当にお世話になったはず)の【ODA-中学】の映像をデカモニターで流すと、そこには、アフリカの学校で授業をする女性が映っていて、画面の右端に小さく(映像提供:JICA)と表示されていた。

「先生、なんかJICAって聞いたことあります!」ある生徒が発言し、周りの生徒たちも、頷くことで同意を示していた。

私は「海外で働くってなんかカッコええよな」と、明後日な感想を呟き、映像が終わるとすぐにサイトを閉じた。

「じゃあ鈴木先生もJICA行ってみたらいいじゃないですか!」話は思わぬ方向に脱線しかけたが、中学3年生の冬期の授業中に雑談をする時間はない。

「いや〜、英語とか全然できんしなぁ」と述べることで「海外=英語」という短絡的すぎる思考回路を生徒たちに披露するに留め、授業を再開した。

県内就職率がそこそこ高い香川県に住んでいたこともあり、周りにJICA海外協力隊の経験者はいなかった。さらに「海外に行ったことがある」というだけでマイノリティになる私の地元では、公民の授業以外で【JICA】が話題に挙がったことがなかった。

大学時代に3週間だけアメリカに行ったことのある、地元では超・国際派な私は、職員室に戻ってJICA海外協力隊について調べてみた。思ったよりもたくさんの職種があるんだな、と思い、画面をスクロールしていた。

学校関係だと「小学校教育」や「理数科教育」「体育教育」は目に入ったが、「社会科教育」は見当たらず、ここでも「JICA海外協力隊」と自分の間にある、お互いを見ることができないようにそびえる大きな壁を感じた。

明日、生徒のみんなに教えてみようと思い、他職種を眺めていると「野球」の文字が目に入った。

「あぁ、野球もあんのか」この時が、「JICA海外協力隊」を自分の人生の中に感じた最初の瞬間だった。

2. 協力隊になろうと思ったきっかけ

野球の職種なら、自分にもチャンスがあるのかな。と考えはしたが、自分が他の野球指導者に比べて突出した部分を感じられなかったので、あまり本腰を入れて募集要項に目を通すことはなかった。ちょうどその頃、私の担当クラスで「社会に出たら通用しない」というセリフがなぜか一瞬だけ流行した。

掃除の時間に手を止める生徒に対し、その友達が「君、そんなんじゃ社会で通用しないよ!」と言って笑い合う。特に意味を持たない会話。発端は、全校朝礼の校長訓話において、校長先生が「皆さんには社会に通用する人間になってほしい」と発言したことらしかった。多感な中学生が、いったいどんなタイミングで、どんな表現に興味を示すのか、今でもあまりわからない。

ある生徒に「先生って学校卒業してすぐ教師になってるから、学校以外の社会を知らないですよね(笑)」と、まるで漫画や映画に出てくるようなセリフをおどけて言われたことがあった。私は1年間、他業種で働いたことがあったため、「いや先生は学校出たことあるし!ていうか教師も社会の一部やし!」と言い返しつつ、確かに自分は学校の外のことをあまり知らないなと思った。「そんなこと言うなんて先生、つらい」と言い、泣いたマネをすることでクラス中に小さい笑いを巻き起こし、話の展開を切った。

「学校以外の社会」「JICA」という2つのワードが、頭の中でぐるぐる渦巻いていた。

次の年、私は大学院で「野球コーチング」を学ぶことになった。野球部の顧問を担当する中、自分の指導力に限界を感じた結果の進学だった。

この2年間が思った以上に過酷で、学費や生活費、さらに前年度の収入に応じて掛かる税金を甘くみていた私(社会科教師)は、JICAのことなどすっかり忘れて日々の慌ただしさを何とか耐え凌いでいた。バイトをいくつか掛け持ちし、イタリアンレストランとバーテンダーの二刀流、日中は大学野球部の指導と自分の授業、研究。精神的にも経済的にも、何より勉強の苦しさに耐え、砂金の如く少量の、自分の中のコーチングに対する疑問が晴れていく喜びを知った。

卒業前年に就職のことを考える際に、JICAのことを思い出した。幸いにも、当時住んでいた地域にJICAセンターがあり、協力隊説明会にタイミングよく参加できた。いつも周りに支えられてきた自分が「国際貢献の一助に自分もなりたい…かも」と思い、応募した。また、JICA海外協力隊の「人生なんて きっかけひとつ」というコピーにも心動いた。人生を「なんて」と表現していることに強烈に惹かれた。この「〜なんて」の表現は、本来あまりポジティブなものではない。ただこの「なんて」は、私が抱えていた将来への不安や2年間の海外生活に対するさまざまな葛藤を蹴散らすかのように、私の背中をぽんと押してくれた。他の隊員のみんなが持つような国際協力に対する大義名分は、私にはなかった。語学留学の経験も、海外インターンシップやスタディツアーの経験もなかった。けれど、少し投げやりに聞こえるこのコピーの表現は、「まぁそれでもええやん」と、私に「応募」ボタンを押させる十分な言葉だった。

大して上手とも言えない、長く続けてきただけの愛する野球と、6年間の教員経験と、急いで取得したTOEICの点数(ギリギリ)、カクテルの口当たりを良くするシェイク技術などを引っ提げた私は、何とか合格をいただくことができた(シェイクの技術は合否に関係ない)。

2025-2次隊での参加が決まった。美しい海と、戦争の歴史。日本との深い関わりを持つパラオに派遣だった。

また、後に先述のコピーを作成したコピーライターの荒木俊哉様とパラオでお会いすることができたのだが、これはまた別のお話。

3. パラオでの活動

パラオでは野球を指導する活動を行なっています。平日の夕方に、放課後野球教室という形で普及活動をします。

その他、小学校に出向いて体育の授業(野球・ソフトボール)を担当したり、夜に行われる大人の野球リーグにコーチ兼任選手として参加したり、パラオ代表野球チームのコーチ兼任選手として国際大会に同行したり、野球づくしの日々を送っています。

選手としても活動していることに対して「楽しそう」とよく言われます。

多分、日々の業務に忙殺されていた教師の頃の自分が今の自分を見ると「楽しそうでいいな」と言うと思います。

「指導者」として活動要請を受けた私が、選手としても活動する理由には、私の好きな作家・宮沢賢治の農業に関わる教育者としての考えが元にあります。

「一度に大勢の生徒を相手に理想を語ってもだめだ。理想と現実の農業はちがう。実際に自分も農民になって、自分で耕しながら人と話さなければ」(畑山博 「イーハトーヴの夢」『光村国語 小6』光村図書出版, 2020)

パラオは野球が国技であり、その始まりは「コウノ モトジ」さんという、日本人による指導だったと聞きます。「コウノさんは非常に野球が上手で、一緒にプレーする中で見本になってくれた」という旨の記録もあります。

まずは私も、一緒にプレーすること。そして一番楽しむ様を見せること。

「失敗のスポーツ」と言われる野球は、うまくいかなかった後に立ち上がる強さを求められます。

この姿勢は単に野球という枠組みを超え、たくましく生きていく上で大事なライフスキルを構築することにもつながると信じています。

人生はいつも「Compass of My Heart」です。

あと1年3ヶ月後の帰国の日、「パラオに来て良かった」そして「来てくれて良かった」と言い合えるようにこれからも活動頑張ります!

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