2026/04/02 Thu
文化
隊員Gのセントルシア日記_71 〜From Pidgin to Creole〜

イギリス統治が長かったにも関わらず、フランス語系クレオールは最後まで生き残りました。私は、その理由を知りたくなり、ミニ探究しましたので、日記として綴りたいと思います。セントルシアは、過去に14回、イギリスとフランスの間で宗主国が入れ替わっています。その中で17世紀、フランス統治の時代に、フランスからの入植希望者があり、土地を所有して、奴隷を労働力とするプランテーション農業を推し進めたのです。ところが、フランス人地主が話すフランス語に対して、西アフリカから連れてこられた奴隷たちはそれぞれの民族の言語しか理解できません。そこで、簡易な接触言語(ピジン語)が自然発生することになりました。当初は、いくつかの語彙と、簡単な文法事項からなる、実用のためだけの言語でした。ところが、その後、セントルシアで次の世代が生まれます。すると、黒人の子どもたちはこのピジン語しか話す言語がありません。結果として、簡易なピジン語が、次第にクレオールへとしっかりと体系づけられていくことになったのです。語彙はフランス語由来のものが多くなりました。(80〜90%)代表的なものとしては、bonjou(おはよう)、bonswe(こんばんは)、mesi(ありがとう)、manje(食べる)、bwe(飲む)、kay(家)などを挙げることができます。そして、文法構造はアフリカの言語由来のものが多くなりました。例えば、クレオールの文法的な特徴として、時制は助詞(ka:進行、te:過去、ke:未来)で表され、動詞が変化することはありません。また、定冠詞は、名詞の前ではなく、後ろに置かれます。(kay la:その家)、そして、所有代名詞も名詞の前ではなく、後ろに置かれるのです。(kay mwen:私の家、kay ou:あなたの家)すなわち、奴隷労働者は、フランス語語彙を使いながら、自分たちの文法で話をしたのです。

そして、最終的に1814年のパリ条約において、セントルシアがイギリス領となることが確定します。しかし、イギリス統治の時代になっても、このフランス人入植者を追い出すことはありませんでした。農園や奴隷の多くは、フランス人の地主が所有していたため、彼らを追い出してしまうと、経済が破綻してしまう可能性があったのです。そのため、イギリスは、土地所有をはじめ、カトリック信仰やフランス文化の存在を認めざるを得ませんでした。行政や裁判や教育は英語で行われたのですが、家庭や市場や教会ではクレオールが話されました。ここに、英語とクレオールの二言語構造が出来上がったのです。ところが、その後、英語が公用語となると、学校教育が英語で行われていたこともあり、子どもたちはクレオールを話さなくなりました。「クレオールは田舎者の言葉」「クレオールを話すことは恥ずかしい」という意識が広まり、クレオールは衰退の一途を辿ります。しかし、他のカリブ諸国に刺激されて、独立への機運が高まると、「苦難の時代を乗り越えてきた祖先の記憶を忘れてはならない」「黒人であることの尊厳を取り戻そう」「我々の誇りを次の世代へと受け継いでいこう」と、クレオール文化を自らのアイデンティティーとして復興する動きへとつながっていったのです。

セントルシア英語の特徴は、すでに世界日記の第48話で綴りましたが、今回の探究でより深まったことがあります。セントルシア英語は、クレオールの影響を受けて、syllable-timed(音節拍リズム)となっているのです。これに対して、私たちが日本の学校で習った標準英語は、stress-timed(強勢拍リズム)と呼ばれています。アクセントのある音節(stress)が強く発音され、弱い音節が縮むのが標準英語なのです。ところがセントルシアでは、すべての音節が同じ長さ、同じ強さで発音されるのです。hos-pi-tal や Fri-day や ex-act-ly において、語尾が強調されているように聞こえたのは、音節がすべて同じ強さで発音されているため、であったのです。また、wait FOR me や are you WITH me? や go TO school など、前置詞が強調されているように聞こえたのも、曖昧母音を許さず、すべてを強く発音しているためであったのです。すべての音節を同じ長さ、同じ強さで発音するとは、道理で「ストロング・アクセント」を、私たちが感じるはずですよね。
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