先日グアラニー語のレッスンを受けてきました。1日8時間を5日間、とても濃密な時間でした。今回は前々回の5)の続きで、もう少しグアラニー語について私が感じていることを話していきたいと思います。
パラグアイではグアラニー語が公用語として日常的に使われています。しかし、グアラニー語しか話せない高齢者がいる中で、首都ではグアラニー語よりもスペイン語が話され、地方に住む子どもたちもスペイン語を練習している姿を見ると、時代と共にグアラニー語を話す人よりもスペイン語を話す人が大半を占めていくのではないかと考えます。
グアラニー語を学んでいく中で、日本とのつながりを考えるようになりました。日本には公用語は日本語しかありません。しかし日本でも各地方には地方それぞれの方言があります。そして時代とともに失われつつある方言を後世に残したいと活動する人がいることをご存知でしょうか。
私がパラグアイに来る前に住んでいたある離島には、「島ゆみた」と言われる島の方言があります。島の高齢者は、私たち本土から来た人には理解できない言葉で会話しています。しかし、一時期方言は悪い言葉として禁止されていたこともあり、時代と共に分かる人・話せる人たちが少なくなり、現在その地域では島ゆみたを後世に残すために奮闘してる人たちがいます。私と同年代の20代の島人が、自分達が島ゆみたがわかる最後の代だろうから今後島ゆみたが残るかどうかは自分達にかかってると話していたのはとても印象的でした。
5)でお話ししたようにグアラニー語とスペイン語をどのように子どもたちに教えていくかを考える同僚をみると、この島人の言葉を思い出します。そしてグアラニー語と島ゆみたには共通点があるように感じます。若者が後世に残すためにと島ゆみたを大切に想うように、パラグアイでもグアラニー語の未来を真剣に考える人たちによって、次の世代の人たちに継承されていくのではないかと思うのです。
言葉も文化の一つです。言葉が一つ消えるとそれにまつわる文化がなくなるとも言われています。もともと私は言語の学習にあまり面白さ感じていませんでしたが、島ゆみたとグアラニー語のことを知ってからは言語にまつわる文化の関係を考えるようになり、少し言語学習のおもしろさが分かった気がしています。スペイン語にさえ苦戦している毎日ですが、グアラニー語もすごく愛おしいものに思えてきます。
グアラニー語のレッスンが終わり、1週間ぶりに配属先に行くと、同僚たちがグアラニー語のレッスンどうだった?習ったこと話してみて!と言ってくれたり、今までに増して嬉しそうにグアラニー語を教えてくれたりしています。パラグアイでグアラニー語がいつまでも話されるといいなと思いながら、今日も私はスペイン語とグアラニー語の練習をしています。
それでは、また次回、Chao!
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