JICA海外協力隊の世界日記

From ナミビア ~アラフォー電気系エンジニアのアランディス奮闘記~

#10-キリマンジャロ登山@タンザニア その①:ナミビアの特徴的な国境線とタンザニアのつながり

みなさん、こんにちは!

今回から数回に渡って、「私事目的任国外旅行」という協力隊の制度を使って、タンザニアにあるアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂した話を書きたいと思います。

▽キリマンジャロの登山道
0F9A1681 (Medium).JPG

キリマンジャロ登山の話に興味津々の方も多いかも知れませんが、まず今回は「私事目的任国外旅行」についての説明と、タンザニアと僕の任国ナミビアの特徴的な国境線である「カプリビ回廊」との関係について書いていこうと思います!


1. 「私事目的任国外旅行」について

jica_guide_ttl.png

JICA海外協力隊は、長期派遣の場合、年間20日を限度として、配属機関の職員に認められている有給休暇の日数内で私費による任国外旅行が認められています。
これが「私事目的任国外旅行」と呼ばれる制度です。

【参考】ボランティア等の海外手当等及び旅行等に関する基準 (jica.go.jp)
※リンク先の第46条、第47条を参照してください。

今回はこの「私事目的任国外旅行」という制度と会社員時代に貯めたお金を使って、年末年始にナミビアを離れ、タンザニアのキリマンジャロに登ってきました。

実は、渡航しようとしている国がJICAが安全を確認している場所なのかを事前に調べたり、渡航先のJICA拠点と連絡を取り合って必要な書類を提出したり、準備が大変で制約の多い制度ではあります。
しかし、任国外旅行を含めた活動期間を無事にを終えることが、それぞれの国や地域で継続的に活動していくためにかなり重要になるので、各協力隊員の安全と任国での継続的な支援を前提にとても考慮された制度だと感じます。

他の協力隊の皆さんの中にも、この制度を使って自分の任国以外の国を旅行をしたり、日本に一時帰国したりしています。
実は僕もキリマンジャロ登山の後で、数日間だけ日本に一時帰国して、ナミビアに戻ってきました。

さてさて、このまま続けてタンザニアでのキリマンジャロ登山の話を書いてしまっても良いのですが、今回は僕の任国であるナミビアとタンザニアの歴史的な関係性と、現在でもナミビアの国境線に残っているその影響について書いてみたいと思います。


2. ナミビアの特徴的な国境線「カプリビ回廊」とタンザニアのつながりについて

Namibia and Tanzania.jpg

上の地図を見ると、ナミビアとタンザニアの位置関係が分かると思います。
そして、青い矢印で示した細長い部分がナミビアの特徴的な国境線である「カプリビ回廊」で、旅行ガイドでは「Panhandle(ナベの取っ手)」などと紹介されていたりします。

なぜこのナミビアの細長い土地がタンザニアに関係しているかというと、島嶼部のザンジバルを除いたタンザニアの国土は、ナミビアと同じく、第一次世界大戦終結後の1920年までドイツ帝国(現在のドイツの前身)の植民地だったという共通点があるからです。

このカプリビ回廊は、1890年にイギリスとドイツ帝国の間で結ばれた「ヘルゴランド=ザンジバル協定」によって、現在のナミビアの国土に加えられました。ドイツ帝国には、この協定でカプリビ回廊を手に入れることにより、何としてもザンベジ川へのアクセスを確保したい事情があったのです。

▽ザンベジ川、ナミビア、タンザニアの位置関係
Zambezi River.jpg

上の地図の青い線で示されたザンベジ川に注目してください。
地図の左下がナミビア、右上がタンザニアです。
当時ドイツ帝国は、ザンベジ川にアクセスできるようにしておけば、内陸部の水路を経由したりインド洋に出たりすることで、ナミビア(アフリカ西南部)とタンザニア(アフリカ東部)の行き来のためのルートができると考えたそうです。

これこそが、ドイツ帝国がカプリビ回廊を手に入れたかった大きな理由だったのです。

▽ドイツ帝国が想定していたルート
Zambezi River2.jpg


3. ドイツ帝国の誤算とカプリビ回廊に遺されたもの

しかし、残念ながらこのドイツ帝国の壮大な構想は実現しませんでした。。。

ご存じの方も多いかも知れませんが、実はこのザンベジ川には観光地として有名な「ビクトリアの滝」をはじめとした航行不能な落差があるのです。

ドイツ帝国はこの事実を見落としたまま「ヘルゴランド=ザンジバル協定」を結んでしまい、現在のナミビアにカプリビ回廊が形づくられることになったのでした。

▽ビクトリアの滝(Wikipediaより)
IMG_4017.jpeg

現在はカプリビ回廊と呼ばれているこの地域ですが、ここには元来、スビア、フウェ、イェイ、ロジ、ンブクシュ、サンなど様々な部族の人々が暮らしていたそうです。

そして実は、この「カプリビ」とは協定に調印したドイツ帝国宰相の名前で、元々住んでいた人たちには全くなじみのない言葉だったのです。

さらに、第一次世界大戦後にこの国を支配するようになった南アフリカによってアパルトヘイト体制が導入され、回廊に住む様々なルーツを持つ住民たちは、自分たちの意志とは関係なく、ひとくくりに「カプリビ族」呼ばれるようになってしまったのだそうです。

ナミビアで出会った人たちの中には、このカプリビ族の人もたくさんいて、始めは「カプリビ」と言う言葉は、ナミビアに昔からあるたくさんの部族の名前の一つだと思っていました。
ですが、この「カプリビ」という名前の由来にまつわる歴史を学んでからは、複雑な感情を抱くようになりました。

僕たちの世代は、未来の世代によいものを遺せるように、教訓として心に刻んでおきたいと思います。

【参考】「ナミビアを知るための53章」/明石書店/p.128-130


今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

それでは、次回もお楽しみに (^_^)/ !!

SHARE

最新記事一覧

JICA海外協力隊サイト関連コンテンツ

  • 協力隊が挑む世界の課題

    隊員の現地での活動をご紹介します

  • JICA 海外協力隊の人とシゴト

    現地の活動・帰国後のキャリアをご紹介します

  • 世界へはばたけ!マンガで知る青年海外協力隊

    マンガで隊員の活動をご紹介します

TOPへ