JICA海外協力隊の世界日記

牛vaca日誌 in PARAGUAY

パラグアイの歴史と多様性

みなさん

こんにちは

コロネルボガード市派遣、家畜飼育隊員の宮﨑杏花音です

前回寒いパラグアイの過ごし方について書きましたが、季節は変わり、25度を超える暖かい日が続いております。

私たち日本人が桜のつぼみが膨らむ様を見て春を感じるように、ここパラグアイにも人々に春の訪れを告げるラパチョという木があります。

色は、白、黄色、ピンクの3色があり、只今コロネルボガードでは黄色のラパチョが咲き乱れています。

パラグアイの人々は、ラパチョの花を見て口々に冬は終わったと話しています。

このまま穏やかな気候が続けばいいなと切に願います。

さてそんな春の陽気が続くパラグアイでは、先日ピラポという日系移住地が入植55周年を迎え、私は現地で行われた慰霊祭とEXPOに参加してきました

慰霊祭はピラポにある墓場で行われました。パラグアイでは88%がカトリックですが、信教の自由が認められており異なる宗派が混在しているためお墓に多様性が見られます。一般的に日本で見られる墓石のお墓があり、その墓石の上に十字架が置いてあったり、十字架だけのお墓だったり、土葬だったりとさまざまです。またEXPOでは、日本の屋台の他にドイツの屋台も出店していました。ちなみに 日本の屋台では、焼き鳥、おはぎ、焼きそばが、ドイツの屋台ではビール、ソーセージ、チーズケーキが販売していました。

そこで、今回は様々な文化や宗教が混在するパラグアイの移民の歴史と多様性についてお話ししたいと思います。

パラグアイには元々先住民グアラニー族が暮らしていましたが、1537年にスペイン人による入植が始まり民族が共存関係を続けていました。しかし、次第に民族間の対立が深まり、グアラニー族の反乱が度々起こるようになりました。そして、スペイン国内の政治的混乱により各植民地での独立運動が盛んになると、パラグアイは他の植民地に先駆けて1811年にパラグアイ共和国として独立を果たしました

しかし、独立後の1864年にブラジル、アルゼンチン、ボリビアを相手に三国戦争を行ったことで、パラグアイの発展は大きく停滞します。戦争の結果は悲惨なもので、国土の大半と、国民の半分以上を失います。敗戦後、国内にはアルゼンチンやヨーロッパ諸国から多数の移民が押し寄せます。

この三国戦争後の移民が、パラグアイの多様性を形作る一端となりました。

パラグアイに日本人の移住が開始されたのは戦前の1936年で、最初の移住地はラ・コルメナでした。

日本人移住者は厳しい自然環境の中原生林を切り拓き、パラグアイでは作られていなかった野菜を栽培するなど懸命に働き、現在のパラグアイの農業の発展に貢献しました。

慰霊祭の時に、日本人が未開の土地で死にもの狂いで頑張ったから今のパラグアイの農業の繁栄があるのだと、移住者代表のスピーチを聞いてしみじみ感じました。

こうして植民知政策や各国からの移民によって形成されたパラグアイの現在の民族構成は、96%がスペイン人とグアラニー族の混血メスティーソ(白人とラテンアメリカ先住民の混血)で、2%は白人で2%はグアラニー族です。

様々な血が混ざっているため、親子であっても髪の色や目の色が全く異なる子供が生まれてきます。

例えば、母親はグアラニー族特有の浅黒の肌に黒髪だとしても、生まれてくる子供は顔つきはそっくりでもブロンドの青い目ということもあります。

日本人では考えられないと思いました。

私のホームステイ先のママは、生まれてくる子供はいろんなバリエーションがあってわくわくすると言っていました。

私も、もしパラグアイ人と結婚したらどんな子供が生まれてくるかわくわくするなって思いました。

ちなみに、この多様性は人間だけでなく牛にも言えます。こちらの牛は、交雑種が多いです。

一見ホルスタインに見える牛から生まれてくる子牛でも、母親と全く異なるブラーマンの特性であるコブが出てきたり、最初は白黒だったのに、成長するにしたがって茶色がまざったりします。

そんな多様性、いろんな文化が混在するパラグアイで日々活動しています。

それでは、また次回!

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