JICA海外協力隊の世界日記

デリー下町生活

アムリトサルの旅 2

 これはジャリヤンワーラー庭園の入り口。第一次世界大戦後の自治と引き換えに戦争に参加したインドでしたが、イギリスは約束を守りませんでした。そしてさらに、1919年3月、ローラット法を発布し、令状なしの逮捕、裁判手続き抜きの投獄を認め、民族運動を弾圧できるようにしました。これに対し、1919年4月、アムリトサルを中心にパンジャーブ州内で大暴動が発生し、暴徒に襲われたイギリス人が十数人亡くなりました。イギリスはすぐさま治安部隊を投入し、集会禁止令を発令しました。

 その後、アムリトサルの民族指導者が逮捕され、これに抗議する市民がこのジャリヤンワーラー庭園で集会を行いました。集会には女性や子供たちも参加していて、非武装かつ平和的なものでしたが、イギリスのダイヤー准将はグルカ兵(ネパール山岳民族から構成された兵)とイスラム教徒からなるインド軍部隊にいきなり発砲させました。解散の警告も与えず、逃げ惑う人々の背中に向かって10~15分に渡り弾丸が尽きるまで銃撃が続けられ、379名が亡くなり、1137名の負傷者をだしました。アムリトサル虐殺事件ともいわれています。

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 公園内には弾痕跡の残る壁や人々が身を投じた井戸も残されています。また、いくつかのギャラリーがあり、虐殺の様子を描いた絵や映像なども観れるようになっています。

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 「私は死刑宣告など気にしない。それは何の意味もない。私は死ぬことなど気にしない。我々は大英帝国の被害を被っているのだ。私は死を恐れない。私は死ぬことを誇りに思っている。」

 これはウダム・シンという人が残した言葉です。彼は上記の事件の時、まだ少年で、庭園に集まった人たちに水を配っていたそうです。長じて革命家となりイギリスに渡って、インドのパンジャブ州の元副知事(イギリス人)を射殺しました。そして死刑になったのですが、この碑文は彼が法廷で話した言葉です。

 伊藤博文を射殺した安重根(アン・ジュングン)が韓国で英雄であるのと同様に、ウダム・シンもインドの人たちから尊敬されています。抑圧されてもそれを跳ね返そうとする魂が引き継がれていくのだろうと思います。

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 これはパキスタンとの国境へ行くバス。屋上にも座席があり最初そこに座わりましたが、お前のチケットはバスの中だと言われてしぶしぶ移動しました。

 アムリトサルの街から30km離れたこの国境では、毎日、国境閉鎖式が行われています。それを見るために多くの人が国境を訪れます。

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 この先に国境があります。この前ではインドの国旗や帽子などが売られ、フェイスペインティングしてくれるお店もありました。

 インド側はスタジアムのようになっています。国境閉鎖式が始まる1時間も前から大音量でボリウッドミュージックが流れ、若い女性が大勢道に出て踊っていました。この日は途中雨やあられが降る天気でしたが、そんな中すごいテンションで踊っていました。

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 パキスタン側はインド側よりずっと人数は少なかったですが、負けずに盛り上がっていました。上の写真は兵士がお互いに相手を威嚇するような動作をしているところ。両手を広げ、胸を突き出して雄たけびを上げます。動作が大げさで見ていて面白かったです。

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 両国の国旗を降ろしているところ。カシミールという領土問題を抱えて問題が起こることもある両国ですが、この国境では友好関係を保っているように見えました。

 パキスタンといえば、20代で中東を一人旅しているとき急性肝炎にかかりラホールの病院で入院したことがあります。あの時は親切にしてもらいました。今でも感謝しているし、パキスタンの人には親しみを感じています。私は、インドも、パキスタンもどっちも好きなので、仲良くなってほしいと願っています。

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