2024/11/19 Tue
人 歴史
インドの偉人アンベードカル
インドではガンジーと並んで、アンベードカルという人が尊敬されています。日本ではあまり知られていないと思いますが、実は今度の私の旅のキーポイントでもあるので、ここで紹介したいと思います。
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルは、1891年4月14日にムンバイの南方で14人兄弟の末っ子として生まれ、ビームと名付けられました。家族はこの地域で最大の不可触民カースト「マハール」に属していました。父は英領インド軍の兵士だったため、教養があって英語が話せ、経済的にも貧しくはなかったそうです。
子どものころ、ビームは兄たちとともに遠方にいる父を訪ねたことがあります。汽車で駅に行き、そこから牛車に乗りました。身なりが良かったので乗せたのですが、話を聞いているうちに御者は子どもたちがマハールだということに気づき、牛車が穢れると言って三人を降ろしました。
2倍の料金を払うということでなんとか乗せてもらいましたが、途中のどが渇いても、どこもみな飲み水を拒否されました。ビームはこのときはじめて自分が不可触民と呼ばれ蔑まれる家に生まれたことを思い知らされました。
学校でもビームは数々の差別を受けました。兄やビームはいつも教室の隅に座らされ、教師の中にはビームのノートに触れることやビームが質問することを拒む者さえありました。水道から直接水を飲むこともできませんでした。のどが渇くと親切な級友に頼み、口に水を注いでもらったそうです。少年時代のこのような屈辱の思い出は、生涯ビームの心から消えることはありませんでした。
兄弟の中で特に勉強ができたビームは家族の協力を受けて勉強を続け、大学に進学しました。そして、バローダ藩王から奨学金を受けてアメリカのコロンビア大学に留学します。奨学金の一部を家に送金しながら、粗衣粗食に耐えて学問を続けました。
アメリカの大学生活には行動の自由があり、学生は全て平等に生活できました。同じシャワーを浴び、同じテーブルで食事をとる。そういう体験がいっそうインドのカースト社会への怒りを強くしたのかもしれません。
ビームはコロンビア大学で博士号を取得し、さらにイギリスに向かいます。資金不足で一時帰国しますが、のちに再度イギリスに留学し、ロンドン大学で博士号、そして、弁護士資格も取得します。同時代にこれだけの学識を持ったインド人はいません。
インドに戻ってからは、藩王の支援を受けて新聞を発行したり、不可触民(ダリット)を助ける活動を続けました。当時、ダリットが街の共同井戸を使用することはできませんでしたが、ビームは裁判で使用許可を勝ち取り、大勢のダリットとともに共同井戸まで行進し、その水を飲むという実力行使を行いました。(バラモンたちは井戸が穢れたと騒ぎ、牛の乳や糞、尿などを井戸に入れ浄化しました。)
また、ダリットの集会で、ヒンドゥー教徒の生活規範のマヌ法典を批判し、これを諸悪の根源だと言って大勢の前で燃やしました。(上記、井戸の浄化の方法はマヌ法典に書いてあります)インド国内で大きな反響がありました。
インドの長い歴史の中で、カースト制度の差別を無くそうと訴えた人はいます。ただ、ダリット自身が立ち上がり、ダリット自身で解決していくべきだと言った人は彼が初めてでしょう。「ダリットへの差別を無くすことができなかったら、ピストルを頭に突きつけて死んでやる。」と言った人です。頭がいいだけでなく、根性、気合が並外れていました。
1931年、アンベードカルは初めてガンジーと会見します。その際、ガンジーが「私は不可触民問題を考え続けてきたし、不可触民の向上にできる限り努力をしてきた。それなのに、なぜあなたは私と国民会議派に反対するのか。」と問いただしたのに対して、
アンベードカルは、国民会議派の不可触民対策が冷淡かつ形式的であることを訴え、「あなたは私が故国をもっていると言われるが、実際には私に故国はない。我々を犬や猫以下に扱い、水さえ拒むような国や宗教をどうして自分の故国だと言えようか。」と言いました。
この会談の後、イギリスでマクドナルド首相がインド人を招いて円卓会議が行われました。たくさんの議題のある中で、マイノリティ問題が話し合われましたが、アンベードカルがイスラム教徒、シク教徒、キリスト教徒などと同様に、ダリットも分離選挙を行うべきだと主張したのに対して、ガンジーはヒンドゥー教徒が分裂してしまうという理由で反対しました。
マクドナルド首相が仲裁に入り、自分に問題裁定の権限を求めたのに対し、ガンジーは同意署名しましたが、アンベードカルは署名を拒みました。その後、マクドナルド首相は不可触民の分離選挙を認める裁定を下しますが、ガンジーはそれに反対して「死に至る断食」をもって抗議します。
アンベードカルは「マハトマ(ガンジーのこと)は不可触民制の廃絶を求めて断食をしたことはないのに、不可触民の権利要求を阻止するために断食を始めた。」とガンジーを批判しました。
断食によりガンジーが死にそうになると、アンベードカルが呼ばれて面会します。ここでガンジーの申し出を断りガンジーが死ねば、多くの同胞(ダリット)が殺されたでしょう。ここでアンベードカルはガンジーの側近と交渉します。
妥協案は、ダリットの分離選挙は行わない。その代わりにダリットに留保議席(割り当てられる議席)を148議席認めるというものでした。これは当初イギリスが提示したダリット議席78を倍近く上回っていました。アンベードカルはガンジーとの面会で同胞の命を救い、留保議席を多く勝ち取ったと後世の歴史家に評価されています。
後年、インドが独立したとき、アンベードカルはネール首相から法務大臣に任命されて、インド憲法を作ります。信じられないことですが、憲法作成委員会のメンバーはだれも協力せず、アンベードカルは秘書をアシスタントとしてほぼ独力で憲法を作ったそうです。
憲法の中で、カースト制度を理由にした差別を禁じ、学校入学や公共機関などの優先的入学・雇用などの留保制度を定めました。ダリットへの差別禁止はインド歴史上初めてのことだし、留保制度はダリットの教育、雇用機会拡大の大きな原動力になりました。
アンベードカルは法務大臣のときヒンドゥー家族法の改定を提出しましたが、バラモン議員や官僚の反対にあって実現でないこともあり、かねて考えていたヒンドゥー教徒からの離脱を実行します。
1956年10月14日、ナグプールで4万人のマハール(ダリット)とともに仏教徒に改宗しました。(のちに60万人が改宗)しかし、糖尿病のため、その2か月後に死亡しました。机に突っ伏して仕事をしながら亡くなっていたそうです。
ビームにはもともと姓がなかったようです。(日本の江戸時代のように)実はアンベードカルと言う名は、ビームの才能を認めてくれた高校時代の教師(バラモン)の名前なのだそうです。この教師が学校の記録簿にビームの姓を自分と同じアンベードカルとして記入してから、ビームが使うようになったそうです。
ビームは、アンベードカルという姓を生涯、使用しました。ビームが1930年に第一次イギリス・インド円卓会議に出席する前、彼はこの教師から祝いの手紙をもらい、とても喜びその手紙をいつまでも大切にしていたそうです。
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