JICA海外協力隊の世界日記

デリー下町生活

デリーに日本人収容所があった

 デリーのJICA事務所には、JICA職員や海外協力隊員が置いていったと思われる本がたくさんあります。私も時々借りていますが、「新インド入門」という本を借りて読んだとき、第二次世界大戦中、インドに日本人の収容所があったことを初めて知りました。

 1941年太平洋戦争が始まってすぐ、当時東南アジア(マレーシア・シンガポール)に住んでいた約3000人もの日本人が強制的にインドに連れてこられ、425日間に渡って収容されたいうことです。その場所は、私も行ったことのあるデリーのプラナ―・キラー(古い城という意味)でした。「新インド入門」によれば、「この事実は一般の日本人はおろか、インド研究者の間でもほとんど知られていない。」のだそうです。

 詳しい話は、1973年からインドのニューデリー日本人学校教師としてインドに駐在していた峰敏朗氏が、元抑留者から丹念に事情を聴取し、彼らの日記などをもとに「インドの酷暑砂漠に日本人収容所があった」(朝日ソノラマ、1995年)にまとめています。

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出典:「インドの酷暑砂漠に日本人収容所があった」(朝日ソノラマ、1995年)

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 上の絵は日本人抑留者が描いたのもので、下の写真は私が写したものです。プラナーキラーはニューデリーのほぼ中央にあります。国会議事堂から3kmの場所で、周りにフマユーン廟やニューデリー動物園があり、緑の多い地域です。

 ムガール帝国発展の土台となった歴史を持つプラナーキラーで、日本人抑留者はテントで生活していました。食事については、最低限の食事しか与えられませんでした。また、慣れないインドの食材は日本人にとっては食べづらかったようです。そこで、有志で栄養部を立ち上げ、自分たちで食事を作りました。配給された皮混じりの大麦粉を蚊帳でふるいにかけ、団子やパンを作ったそうです。

 さらには、元菓子職人の抑留者が工夫を凝らし、あん入りの饅頭を作っています。そのほか、配給された青小豆が発芽しているのを見つけ、そこからもやしの栽培を行ったり、別の豆から味噌まで作っています。毎日の残飯に含まれる米から麹を作り、その麹を使ってどぶろくまで作ったそうですからたいしたものです

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出典:「インドの酷暑砂漠に日本人収容所があった」(朝日ソノラマ、1995年)

 また、リーダーは「我々はPrisoner of War(戦争捕虜)ではない。Internee(被抑留者)である。要求は通す権利がある。」とイギリス当局へ不満と要求を訴え、善処を迫りました。逆境にあっても卑屈な態度をとることなく交渉したようです。


 デリーに到着した1月は朝の最低気温が5度くらいまで下がり、5~6月は最高気温が45度くらいまで上がるので、テント生活は過酷だったろうと思います。それでも、生活の改善点を話し合ったり、学校を作って子どもたちを教えたりして、できることは協力し合ってやりました。

 過酷な環境の中、諦めることなくしたたかに交渉し、食事の工夫など常に自分たちの状況を改善しようとするひたむきさには大いに共感するところがありますし、励まされる思いがします。

 その後、日本人抑留者は一部が日本に帰還します。そして残りの多くの人たちは、終戦までラジャスタン州のデオリ収容所に移されます。そこでも、いろいろなことが起きるのですが、もし興味があれば「インドの酷暑砂漠に日本人収容所があった」を日本の図書館で借りて読んでみてください。私はこれらの事実を知ることができ、インドに来てよかったと思っています。

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