JICA海外協力隊の世界日記

デリー下町生活

「パール判事」を読む 1

 今回は中島岳志の「パール判事」を読んで、パール判事のことについてまとめてみたいと思います。パールはインドより日本での方が有名な人かもしれません。

 まず、パール判事こと、ラーダービノード・パールは、インド政府に派遣され、東京裁判で判事を務めた人です。東条英機などのA級戦犯に無罪判決を出した人として有名です。東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)は、1945年8月14日、ポツダム宣言を受け入れて日本が降伏した後の、1946年5月から1948年11月まで東京で行われました。

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 今回は、パールの人となりを知るため、彼の生い立ちを追ってみたいと思います。パールは1886年、現在のバングラディシュの小さな農村で生まれました。家は貧しく、そのうえ3歳の時に父が急死したので、母親は親類の家で家政婦をしながらパールと2人の妹を養ったそうです。

 パールは村の小学校を優秀な成績で卒業しましたが、貧しいため学業が続けられませんでした。悩んだ末、いくつかの学校に宛てて手紙を書き送り、自分の置かれた状況と、高等教育を受ける機会がほしいという思いを切々と訴えました。この手紙は一人の教師の心を動かし、町の高校に進学できるようになりました。

 その後、篤志家の援助を得て大学(数学を専攻)に合格し、奨学金を獲得しました。しかし、奨学金の大半を村で貧しい生活をしている母親に送ったため、食事にも窮するありさまでした。その苦境を見かねたある人物が、パールを自宅に招き入れ、食事と部屋を与えて学生生活を支援しました。学業に一心に打ち込んだパールは、トップの成績で大学を卒業しました。

 パールが大学生だったころ、日露戦争が起こりました。パールは日露戦争での日本の快進撃に連日歓喜し、のちに次のように回想しています。「1905年、日露戦争当時は、わたくしはまだ学生でした。ちょうどカルカッタ大学に入学した時でしたが、わたくしは学生当時から平和主義者でしたが、それにもかかわらず、今日は日本が旅順を落とした、今日は奉天の会戦で大勝した、対馬海峡で東郷元帥がロシア艦隊を全滅させた、といっては自分たちの国が勝ったように喜んだものです。試験勉強もそっちのけで、毎日ニュースにかじりつき、学校ではその問題で沸き立っていました。」
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 パールは、大学を卒業後、行政機関に就職しました。そして、仕事の合間をぬって、法律の勉強を始めました。そして、瞬く間に法律の知識を身に付けましたが、ある大学から数学者として教員採用したいという通知があり、一旦法律の勉強をあきらめて数学教授になりました。ここで十分な給与を得ることになった彼は、これまでの借金を返済するとともに、生活に窮する学生たちの経済的支援を行いました。彼は毎日のように学生たちを家に招き、妻の手料理をふるまいました。このような苦学生たちに対する支援は生涯にわたって続けられ、彼は長年の間、多くの学生に慕われたそうです。

 しかし、パールは法律家になる道をあきらめたわけではありませんでした。数学教授の座につきながらも、法律の勉強を続け、1920年にはカルカッタ大学で法律の学位を取得します。法律家になることを志向しつづけた背景には、母親からの影響がありました。パールは、母親から常に「カルカッタ高等裁判所のバネルジー判事のようになってほしい。」と言われ続けてきました。バネルジーは、当時のカルカッタではよく知られた法律家で、母は彼のような立派な法律家になって、世の中の不正を正してほしいと願っていたといいます。貧困の中、女手一つで育てられたパールは、母親の期待に応えることを自らの使命と捉え、法学の勉強に励みました。そして、1923年、ついにその努力と実力が認められ、カルカッタ大学の法学教授に就任しました。さらに、翌年にはカルカッタ大学から博士号を授与され、名実ともに法学者としての地位を確立しました。
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 さて、このころのインドはイギリスの植民地になっていて、ガンディーやネルーなどの国民会議派がイギリスからの独立運動を行っていました。パールは独立運動に加わることはなかったのものの、ガンディーの思想や運動を熱烈に信奉するガンディー主義者でした。1952年にパールが早稲田大学で行った講演では、「イギリス統治下200年間の苦悩と圧制は言語に絶するものがあった。そこでは自分の正当な意見すらも吐くことができなかった。人権も正義も、そして、思考の自由すらも奪われていた。しかし、そのときガンディーは我々を指導してくれた。我々はガンディーの3つの信条(平和、非暴力、不服従)を忠実に守り、闘ってきたのである。我々はこの教えの中に最後の勝利があることをかたく信じている。」と言っています。

 そのガンディーは、1942年7月に「すべての日本人に」と題した声明文を発表し、日本を糾弾しています。「最初に私は、あなたがた日本人に悪意をもっているわけではありませんが、あなたがたが中国に加えている攻撃を極度に嫌っていることを、はっきりと申し上げておかなければなりません。あなたがたは、崇高な高みから帝国主義的な野望にまで堕してしまわれたのです。あなたがたはその野心の実現に失敗し、ただアジア解体の張本人になり果てるかもしれません。」こういったガンディーの考えをパールが知らなかったはずはないと思います。次回は、東京裁判のいわゆる「パール判決書」についてまとめてみたいと思います。

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