JICA海外協力隊の世界日記

SAKAMOTO, search fire!

マラウイってどんな国?Part. 5

こんにちは!今回はイギリス植民地時代~独立までをお話しします。

 

拓かれるアフリカ

19世紀後半、イギリスの奴隷解放運動とキリスト教布教活動により、マラウイは着々と拓かれていきます(前回記事参照:https://world-diary.jica.go.jp/sakamotoryuya/cat2578/part_4.php)。同時にアフリカ大陸の他地域もヨーロッパ列強の国々に侵略されていきました。この植民地化の過程は「アフリカ分割(Scramble for Africa)」と呼ばれています。列強同士の話し合いで、緯度や経度を領土の境界線にしたケースがあり、それが原因で現在のアフリカ諸国の国境線の多くがまっすぐになったようです。

最終的にはイギリス領は現在のエジプト、スーダン、ケニア、ガーナ、ナイジェリア、ジンバブエ、ザンビア、ボツワナ、マラウイ、南アフリカ、モーリシャス、セーシェルなど、広大な地域に及んでいます。当時、ザンビア領マラウイ領ジンバブエ領はそれぞれ北ローデシア(Northern Rhodesia)ニヤサランド(Nyasaland)南ローデシア(Southern Rhodesia)と呼ばれ、イギリスに統治されていました。

独立へ向かって

1896年、エチオピアがイギリス軍に勝利したことも影響し、反植民地運動の機運が高まったとされています。カムワマ氏(Edward Kamwama)は、南アフリカ滞在時、アフリカ側に立って活動していたスコットランド人宣教師のブース氏(Reverend Joseph Booth)に影響を受け、マラウイに帰国後、1908年にものみの塔教会を設立し、当時の税制に抗議しました。(*1, *2)

もう一人、ブース氏に師事し独立運動を行った中で欠かせない人物がいます。それがチレンブウェ氏(Reverend John Chilembwe)です。彼はブース氏に師事し、共にアメリカへ渡って教育を受け、民族主義思想の影響を受けたそうです。マラウイに帰国後、彼は自身の教会を建設しました。当時のイギリス統治下の労働環境・制度に不満を募らせ、第一次世界大戦におけるイギリス対ドイツの戦場となったカロンガで、戦争の当事者ではないアフリカ兵の犠牲者が増えていく度に彼の怒りはぐつぐつと煮えたぎってゆきます。ついに1915年、彼は部下にヨーロピアンの襲撃と武器の確保を命令しました。企ては阻止され、彼の親族もろとも処刑あるいは投獄されることとなりました(*2)。彼の肖像画は現在の500マラウイクワチャ・2000マラウイクワチャ紙幣に載っています。つい最近までは、すべての紙幣に載っていたそうです。

マラウイ共和国初代大統領となるカムズ・バンダ(Kamuzu Banda)氏は、1898年頃にカスング付近で生まれました。1915年、彼はニヤサランドを去ることを決意し、なんとおよそ800km歩いて南ローデシアまで移動しました。ヨハネスブルグへ移ったのち、彼は教会の支援を受けながらアメリカへ渡り勉学に励み、1937年に医学の博士号を取得しました。ニヤサランドに戻り開業を試みるも、アフリカ人が医者として働くことを病院が認めず、1945年、彼はロンドンで開業しました。(*2

マラウイ共和国の誕生

1943年、イギリスからの独立を目標に掲げるNAC(Nyasaland African Congress)という政党が結成されました。バンダ氏はNACを金銭面でサポートしていましたが、ついに1957年、NACのチペンべレ(Henry Chipembere)氏がバンダ氏にニヤサランドに帰ってくるよう要請し、バンダ氏はこれに応じます(*1)。一方1953年、イギリスによる統治を強める狙いでローデシア=ニヤサランド連邦(Federation of Rhodesia and Nyasaland)が結成され(*2)、NACとの対立が浮き彫りになってゆきました。

バンダ氏は1959年に投獄されてしまいますが、翌年には出獄し、NACの後身であるMCP(Malawi Congress Party)の代表になります。その後、アフリカ人の投票権を勝ち取り、MCPは94%の投票率をもって圧勝しました。選挙後、イギリスは段階的にニヤサランドに対し自治権を与え、1963年の2月、バンダ氏は首相の座を手にします。そして1964年の7月6日、ニヤサランドは「マラウイ」と名前を変え、正式にイギリスから独立することとなりました。現在、7月6日は独立記念日として、国民の祝日となっています。(*1, *2

 


マラウイの独立までの軌跡をお話しさせていただきました。

正式に独立を勝ち取るまで、多くのマラウィアンが犠牲になってしまったこと、やはりどの国も悲しい歴史を背負っているのだ、というのが私の率直な感想ですが、アフリカ人側に立って運動していたヨーロピアンが存在したことに驚きました。

ちなみに、サムネイルは、マラウイ共和国第三代大統領であるムタリカ元大統領が首都リロングウェに建設した、第一次世界大戦慰霊塔です。塔に行くと、若いマラウィアン2人組がポーズを取って記念撮影していました。何のために建てられたのか知らないのかと思いましたが、戦争があったことが忘れ去られないという意味ではいいことなのかもしれませんね(汗)。

それではこの辺で、Tionana!

 


<参考文献>

*1(the Bradt Travel Guide, Malawi, edition 6, 2013)

*2(マラウィを知るための45章【第2版】、2010)

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