2023/12/28 Thu
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#27 ナミビアの歴史を感じる街
こんにちは、ナミビアのオマルルという町で活動している豊田です。
ナミビアの小学校は、12月が年度末で学校が休みに入るので、今は夏休み中です。
年度末は、試験、0年生の卒業式、7年生の卒業パーティー、成績渡し、同僚との忘年会など、行事続きでした。
0年生の卒業式や7年生の卒業パーティに関しては、昨年の記事(#3)に書いておりますので、ぜひ読んでください。
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夏休みに友人がナミビアまで遊びに来てくれたので、ナミビアの南部を中心に旅行してきました。
その旅の中で、ナミビア最南端の街”Luderitz(リューデリッツ)”へ行ってきました。
カラフルな建物が並んでいたり、ペンギンやアザラシを見に行けるツアーがあったり、
海鮮(生牡蠣やロブスター、クレイフィッシュなど)が美味しく食べられたりと魅力いっぱいの街です。
街歩きやペンギンツアーを楽しんだ後、ガイドさんが連れて行ってくれた場所のまず1つ目は、”Dias Point(ディアス ポイント)”
ここは、1488年にポルトガル人の航海者であり冒険家のBartolomeu Diasさんによって、初めて記録されました。
彼がインドへの航路を確保するために航海している時に見つけ、その後何年もの間、誰も上陸する者はいなかったでそうです。
彼はこの湾をアングラ・ペケーナ(ポルトガル語で小さな湾)と名付け、南の半島にパドラン(石の十字架)を建てました。
本物はドイツの博物館にあるそうで、レプリカが建てられていました。
2つ目は”シャークアイランド”
この名前になった理由はいくつか説があるようで、島の形からという説や、
ガイドさん曰く、亡くなった人を海に投げ捨てサメに食べさせたからという説もあるようです。
ナマ族の長の石碑やドイツ兵の亡くなった人一人ひとりの名前が石壁に彫られていたりしていました。
「どうして人が亡くなったのか」という問いに、「寒さや環境に適応できなかったから」とガイドさんは仰っていて、
少し不思議に思ったので帰ってから詳しく調べてみると、
ここは強制収容所として使われ、たくさんのナミビア人が違う街から輸送され働かされていたようです。
確かにナミビアは、内陸の街と海側の街を比べると気候が違うため、ガイドさんの言っていたことは納得できました。
ナミビアが昔ドイツの植民地だったことは知っていましたが、
悲惨な過去やナミビア人たちが反乱を起こしたことがよりイメージでき、ナミビアの歴史を感じられる街でした。
ここにはリューデリッツさんという街の名前にもなった方の慰霊碑もありました。
街の名前が人の名前からきていることを知りました。
この方はドイツ人の商人で、1883年地元のナマ族の長と交渉しこのリューデリッツの土地を購入し街が設立され、翌年にはドイツ帝国に売却(ドイツの植民地支配がスタート)したそう。
この街は、元々上に書いたようにアングラ・ペケーナ(ポルトガル語で小さな湾)という名前でしたが、リューデリッツさんがオレンジ川への遠征から戻らなかったため、彼に敬意を表してリューデリッツと変更されました。
ただの「綺麗な街!」「楽しかった!」だけで終わらず、色々と学びのある時間になりました。
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ナミビアの街の名前には、色々意味や理由があって面白いので、またそんなこともまとめてみようかなと思います。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
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